動物実験の誤りを証言する世界千人の医師たちの証言より抜粋その4
下記は医師の証言(論文、インタビュー記事、残されているコメントなど)のみを抜粋したものです。
発言者と引用文献、年月日などの詳細は「医療の犯罪」(書籍)にて確認出来ます。
(himaari)
千人の医師の証言より-4
商業上の利害関係者は、生体解剖法が金銭的に大変利益をもたらすことがわかると、多量のワクチンや血清、食べ物などを市場に並べています。しかし、これらは多数の動物、しかも悲しいことに動物たちの中にはこの目的のために育てられてきたものもいるのですが、彼らの利益はその動物たちの実験室での苦しみによるものなのです。いまや世の中で、このような生体解剖を行なう者が、純粋に知識を習得するためにのみ生体解剖を行なうと信じることは不可能です。生体解剖者の功績は、それが人類に価値のないものでも、その生体解剖の当事者には昇進をもたらすことが確実なのです。」
『Ab@@t』一九三四年八月一日号に報告されているように、一九三一年十二月に始まる二十八か月の間に、シ� �ゴだけでも二万二〇〇〇頭以上の野良犬が生体解剖に使われています。
動物は安く、数多くおり、またほとんどが法の保護の外にあるために、生体解剖者は動物の精神的、肉体的自由を奪うよう奨励されているのです。しかし、それぞれの動物は人間も含めて、それぞれ異なった構造をしています。それにもかかわらず、生体解剖者はある種の動物に人工的に怪我をさせたり、病巣を埋め込んだり、一部を切除したり、あるいは他の不自然な手段を使って、人間に生じる過程と類似点を見つけようとしているわけです。では、なぜそのような方法が、それほどまでに執物に押し進められてきたのでしょうか。生体解剖者は急いでおり、また出資者がその使い道を決定する権利があるか� �です。生体解剖者は、人間における状態とは完全に異なる動物の組織に、人間の組織になるべく近い状態をつくり出そうとするわけです。これは多くの場合、農業用の手押し車と自動車、あるいは牛とプリマドンナとの間に類似性を見つけようとするのと同じようなものでしょう。
人間以外の動物における腫瘍は、人間の腫瘍とは完全に異なる性質のものです。ですから、タールのついた作業員にできた腫瘍と同様に見せるために、動物にタールを塗り、そこから何か価値あるものを見つけようとすることは、砂から城を作ろうとするのと同じくらいみじめなものです。過去五十年の間、がん問題に関するこの荒唐無稽ともいうべきやり方で、何百万ポンドもの動物が、長い苦しみのあげくに死にいたるという状況にさらされてきた� ��です。もはや、生体解剖は完全に禁止すべき時期にきているのです。
私は一九二八年にリバプールで、議会に対する犬の免除法の嘆願書にサインした三〇人の医学生のうちの一人でした。その法案が、犬を生体解剖に使うことを完全に阻止するのであれば、すぐさますべての動物の生体解剖をも完全に阻止することを推進するという明確な理解のもとに、それを支持するでしょう。この国での生体解剖の量は増えてきていると思います。私は、これは保健省からの援助、奨励によるところが大きいと信じています。譲合の信用を得るという理由のために、保健省は人々の精神的、肉体的健康に関する多くの事項において、独裁的ともいえる力を持ってきたのです。」
「内分泌剤については、最近になって大変重要な発� �がなされたけれども、それらを使用するにあたっては、充分な注意がなされなければならない。この点においては、動物実験を急いで人間に応用したために、またさまざまな製薬会社からのあふれ出るような一連の宣伝活動のために、ひじょうに危険な誤用がなされたのである。」
「まず、この記事のタイトル自体議論の余地のあるものである。一九二三年以来、糖尿病においてインシュリンはほとんど普遍的に使用されているにもかかわらず、糖尿病による死亡率が、この国やカナダ(インシュリンの発祥地)だけでなく、統計のある他の先進国においても、なぜ年々上昇しているのか、決して充分な説明はなされていない。インシュリンとジフテリアの抗毒素血清とを比べてみることは興味深い。ジフテリアは四十年以上� ��わたって猛威をふるってきたが、『@@』は主要記事の中で、最近十年間で抗毒素血清はその効果を発揮せず、ジフテリアによる死亡率も特効薬″の一般的な使用にもかかわらず増えてきているということが認められた、と述べている。しかし、認めたといってもこれはその代用物、すなわち今ではいたるところで褒めそやされているアナトキシンが出てくるまでは、死亡率の上昇についての説明は明確にされなかったのである。インシュリンの代用物はすでに進展してきており、インシュリンそのものよりも優れたものとして推進されているが、インシュリンが発表されたときのような勢いが出てくるまでには、まだ数年かかるだろう。しかしその代用物にも、また疑う余地のない欠点があるはずである。
当事者のになる方法「もともとインシュリンの製造は、誤って考え出され解釈されてきた数々の実験と、そうした実験の多大なる誤解によって生まれたものである。」
『Lancet』の執筆者は、不幸にも小さいながら健康な膵臓の一部が残された犬の状態は、糖尿病で苦しむ人間のそれとは本質的に異なる、と述べている。さらにまた、人間の糖尿病には二つの要因がある。すなわち川実験動物には見られない本質的に進行性の病巣、不適切な食事による有害な効果である、とも述べている。
事実、インシュリンならびにそれが発見された方法は、科学的とは言えない。なぜならすべての動物実験についてそうであるように、研究され、生み出された病理過程は人工的なものであり、人間の� ��験者によって得られるものはとはまったく異なるからである。」
「胃潰瘍や十二指腸潰瘍は自然には動物には決して起こらないものであり、それらを実験によって再生することは困難である。実験によって生み出させてはきたが、それは動物に多大な害を与え、人間においてそのような潰瘍を引き起こす要因となるものとは何ら関係のない方法によって生み出されてきたのである。さらに、このような人工的な潰瘍は表面的なもので、すぐに治り、人間に見られる頑固な慢性の潰瘍と類似している点はほとんどない。」
「ジギタリスは、動脈硬化と関連した心不全においては、ひじょうに貴重なものである。長い間、動物実験の結果を誤って人間に応用したために、我々は反対のことを教えられてきた。」
「知的追求� �悲惨な結末は、医学、生物学、生理学の分野でより痛々しく見られる。彼らは生命の本質を研究したいと思っているのだが、苦しめられたあげく死にいたる無抵抗な動物のずたずたに切られた体から、それを発見できると思っている。」
「生体解剖は忌まわしい行為であり、不名誉なものであり、真の犯罪である。生体解剖が教育的な方法ではないということを示す理由は数多くあるが、それらは次のようなものである。すなわち、苦しみに対する無関心。また、絶対に罰せられることはないという確信のもとに、良心の呵責もまったくなく、弱者を公然と侮辱すること。さらに動物たちの助けてほしいという悲痛な叫びに憐れみの念をせきたてられるという本能や衝動を抑えること。ひじょうに残虐な犯罪行為を是認し、犯罪行為� �行なうこと。正直〃や正義〃という言葉を自分勝手に歪めること。さらに、恵への志向やサディズム、犯罪行為を刺激することである。」
「実験的に犬に作られた胃の腫瘍について、ある学者は、動物のおかれている特別な実験的状況というものが人間には決して起こり得ないときに、なぜ動物実験から人間の胃の腫瘍に関する事実を推測することができようか、と述べている。」
「芸術、科学、文学というすべての分野に属する人々が、生体解剖を忌みきらい、非難しているということは誰もがよく知っていることと思います。専門家の間で、生体解剖と医学との関連についての疑いが次第に高まりつつあります。
私はインシュリンが発見されたその第一日から、インシュリンを使ってきました。生体解剖を通じての� �尿病に関する研究は一八八九年に始まりました。三十年以上も経ってから、多少進歩した生体解剖の結果によって、インシュリンの発見が公表されました。しかし、三十年にわたる生体解剖によって得られたインシュリンは、糖尿病の治療薬でもなければ、それを予防する手段でもなく、たんにやっかいな治療法の代用物でしかないのです(CIVISの注。糖尿病はインシュリンが紹介されてから驚くほど増えている)。
医学を勉強すればするほど、医学の真の勝利は人類の自然な現象の中で患者を観察した結果であって、動物で人工的につくり出された現象から結論を引き出そうとする実験主義者の混乱した活動の結果ではない、ということがよく分かるでしょう。ロシアの生理学者パブロ7は、二十五年にわたって犬に実験を行� ��ってきました。彼のやったことは素朴な行為の典型とでもいうべきものです。
私の生体解剖に対する見方は、それが新しい治療法の臨床応用を遅らせてきたように思える、ということです。八年前に肝臓の調合物を用いた貧血の治療を発表したアメリカ人がいました。これは犬に試され、犬の血が採取されました。彼らがいったいどのような目的で、貧血の研究のために犬を使ったのかということを、いまや我々は自ら問わねばなりません。臨床方法を用いて、少なくとも病気の人自身に実験を行なうことも可能だったのではないでしょうか。過去五十年にわたって、動物の胃や腎臓、心臓に研究実験を行なうために、エネルギーとお金が使われてきました。しかしそれでもなお、そういった器官の研究実験では、人間の苦しむ数多 くの病気の原因は分からないのです。」
さて、大きな問題に直面したのは、私がロンドンで開業医となり、生体解剖の理論について研究に入っていったときでした。日が経てば経つほど、生体解剖には有用な点が何一つないという私の信念を強めていったのでした。
糖尿病に関しては、バンティング博士がヶ糖尿病を征服した″人物だという驚くべき主張を先日読み、残念に思いました。私が残念に思ったのは、その主張が何百万あるいはそれ以上の人々によって読まれるからです。皆さん、糖尿病は克服されてはいないのです。医療関係者自身がそれを認めようとしています。インシュリンは治療薬ではないと言っています。インシュリンは糖尿病の進行をとどめる、すなわち一 時的には進行を遅らせるかもしれないが、治寮薬ではないことは認めているのです。それでもインドやオーストラリアからの治療薬があります。
さらに、他の国々からも糖尿病に効くとされている簡単な薬草による治療薬などを送ってきているところがありますが、私たちはこのようなものを医学の前に出すことはできないのです。
私は丸一年かかって『医学における新しい試み』という論文を書きましたが、それは冷たくあしらわれてきました。私は恰好の問題提起をしていたのですが、医学者は私の書いたものを手に取ることはおろか、見ようとさえしなかったのです。」
「観察や実験、研究などから分かるように、人間は独特の肉体構造をもっています。局所解剖であれ、手術解剖であれ、あるいは検死� �剖であれ、まず体が最初にあるわけです。私たちはすでに知識を持っている人の教えに従うことで充分な経験を積み、また病気の人から学びながら、最初は専門家の指導の元でこれを実践に移します。そのとき初めて、簡単なものから次第に複雑なものへと自らの資格により得た権利を行使できるのです。医師はつねに患者の苦しみに心を配らねばなりません。必要以上の苦しみは厳重に避けねばなりません。そして、医師の患者に対する注意や科学は、患者の病状に改善をもたらすことを目的としなければなりません。
動物実験(生体解剖)を行なうときは、我々人間とはひじょうに異なる生き物を扱うことになるのです。一方では健康な器官や組織を扱い、一方では病気のため、器官や組織に大きな変化や退化、潰瘍などが見ら� ��るがゆえに人間に手術を施すわけです。人は生体解剖を行なうことによって医師として生計を立てるのではなく、自分のような生き物、すなわち人間に手術を行なうことによって生計を立てるのです。
経験や人間の技術の進歩、さらにそれぞれの場合に対する治療法に関する知識が生み出されるもととなる生理学に関する完全な知識、それらが外科知識や一般的な医学の基礎となるのです。病気の動物に手術を行なうことで経験豊かな獣医は生まれると思いますが、人間に対して手術を行なう手腕を身につけるのを口実として健康な動物に手術を行なうことは、真実性に欠ける作り事にすぎません。」
「偏見を持たない医者で、がんの問題解決に一歩でも前進したと言う者がいるだろうか? この分野の調査研究に何千ポン� �という大金が動物実験の費用として費やされたが、何ら実用性のある結果は出ていない。綿密に作り上げられた理論はできたかもしれないが、それは実用的な成果につながらず、がん死亡率はその間増えている。」
「我々は、動物実験の無用さが目にあまる例にぶつかる。このような実験が我々を導くものは何もない。事実、それは医学の進歩の妨げになる。」
「私は外科医である。学生時代に実験室で動物に実験をせねばならなかった。しかし私は正直なところ、同級生の誰一人、この犬の大量虐殺から知識を広げたという印象を抱いた者はいなかったと思う。なぜか? 学生に与えられた時間が短く、学生は手術に不慣れで、犬には適正な麻酔がかけられていなかったからである。実験の後、動物は哀れな状態だった。消 毒剤もなく、手術のやり方は解剖学的相違があるから人間の扱いとは違っているはずであるのに、その結果について誰も調べようとしなかった。犬の大量虐殺は、廃止されてしかるべきである。
なぜ犬が使われるのか。それは犬が献身的で忠実であるうえに、大学に負担をたいしてかけずに入手できるからである。」
「多くの人々は、問題の道徳面を見ない。そこで我々は、科学的議論を用いて彼らを説得せねばならないわけだ。科学的には、生体解剖は、動物から得た科学的結論を人間に適用できるという仮定に立っているが、この仮定に矛盾する数多くの例があるのだ。」
「ためらうことなく我々は、医学の進歩が多くの無用な実験によって妨害されている、と宣言する。」
geroge washingonはいや子供を持っていなかった 「現在生体解剖は外科にも内科にも何も役立たない。主要な科学論文が刺激への反応は全動物に一定のものではないという見解を確証している。生理学者自身が、彼らの研究方法は、人間のためになるという目的がなければ酷なことである″と言っている。国際歯科連盟が提唱する実験の残虐性は、我々が示しているように議論の余地がない。これらの実験は無用なだけでなく、不道徳″でもある (そしてゲラール医師は次のような結論に達した)。
国際歯科連盟が、人間の歯とその他の哺乳動物(特に犬)にあると思っている生物学的類似性は、実際には存在しない。
この規定された実験方式は、科学的真実に矛盾するし、それゆえに間違いの元になる。
そ� �から得られた結果は、科学的見地からまったく価値のないものである。基礎が誤っていると、実験も誤って、必然的に間違った最終結果を引き起こすわけである。
これらの無用な実験は、残酷でもある。それは長い時間を要し、動物にとっては極めて厳しいものである。」
「動物の生理的反応が、ひじょうに感受性の強い人間の臓器の救済に役立つというのは、極めて非科学的であり、同時に残酷でばかげている。動物の死体の山は、血なまぐさい生体解剖の焼け焦げた使物にすぎない。怠慢な言い訳の上に空虚が構築され、その上に文明が塔を建てているのだー・」
「科学的見地からは、生体解剖問題の解決は一分とかからない。犬は、人間とは解剖学上、生理学上からも、また病理学上の見地からも� ��較にならない。人間とはまったく異なっていて、どこも人間と似ているところはない。私が医学校の生体解剖実演から学んだことは、間違い∴ネ外にはまったく何もない、とさえいえる。」
「動物から得た結論が人間に通用できるという仮定に矛盾する数多くの例がある。その例として肺病、梅毒、がんをあげたい。
人間の梅毒は、体のほとんどすべてを攻撃する力を待った病気であり、母親から子供に感染 して発病する唯一の病気である。数年前、これに関してウサギに実験が行なわれた。ウサギに梅毒が注射された。この実験で分かったのは、注射をして病気にさせた場合は局部だけにとどまり、子孫に伝染しなかったということである。つまり梅毒の知識を、動物実験の結果をもとに得ると、迷路に入ってし� �う。肺病で、肺の結核に効くと分かった最新の治療法の一つに人工気胸法があり、ガスを注入して肺を休息させるものである。この実験もまた、ウサギに行なわれたが、結果は、人工気胸法が病気をとどめるどころか、いっそう呼吸が早くなって、死にいたることが分かった。
さて、現在がんは、最も動物実験が行なわれている病気といえるだろう。この実験がどのくらい前から行なわれていたかを言うのは難しいが、少なく見積もっても二百五十年間、何千という動物が使用されたに違いない。しかし、それでもいまだに人間のがんを動物に誘発することには成功していない。いろいろな種類の腫瘍を作ることははできたが、人間のがんに近いものはない。
この実験が無意味なもう一つの例として、ゴキブリから取っ� �寄生虫をネズミに注入してがんを作ろうと思いついた、コペンハーゲンの実験者の驚くべき一件がある。彼は試行錯誤の実験を繰り返し、やっと何らかの鹿瘍を作り出したが、黒いネズミには腫瘍がどうしてもできず、黒白ぶちネズミにしかできなかった。このように、種のちがった動物というのみならず、同じ動物でも反応が違うのである。では、人間と動物の間の相違は、いったいどのくらいあるのだろうか。」
「タロード・ベルナールの時代から唱道されている人間の病気を研究する方法は、まず下等動物にその病気を再生し、動物の中でどうなるかを検査するものである。理論では理想的かもしれないが、実践では完全にこれを行なうことなどめったにできるものではない。細菌、あるいはその他の人間の病原の媒体を動� �に導入して、あるいは食事の中から必須のものを取り除くなどして、人間の病気とよく似た病気を作ることはできるが、動物の反応は様々なので、病気が正確に再現されるわけではない。」
「
薬の動物実験の結果を、人間に適用することは、まったく無駄で誤謬を招くものであり、こういう状況の改善がなければ、医術に大きな進歩は起こらないであろう」「実験薬理学は現在、州政府の援助を受けているが、動物に施された薬物実験の結果は、人間への適用という点では、まったく用をなさず、むしろ人を欺くものである。」
「私は生体解剖が無駄で、不道徳であることに気づいた。今困難なのは、それに反対する理由の多様性に対処することである。道徳面は、上位にある生き物は下等なものに対しての責任を持つこと、また下等なものの進化を助成する義務があるということに気がつく者なら、誰でも対処できるものである。職業に就いている者からは、科学的側面が強調されるべきである。まず始めに、最も進化した哺乳動物の反応が人間の反応と同じであると仮定できるだろうか?
人間でも人種が違うと、痛みや病気のあり方はさまぎまである。北アメリカのインディアンは、ヨーロッパ人ならショックで死んでしまう拷問よりひどいものでも耐えられることが知られている。それよりもっと相違が� �きいのは、人間といわゆる下等といわれる動物の間である。人間には毒でもその他の動物には無害な薬物がある。またその道も異なりということはよく知られている。同毒療法の創始者ハーネマンが彼の薬をテストする際には自分にテストしたので、動物で実験したものから得た情報より、その特性についてより正確な情報を得ることができたのである。」
「生体解剖という、とてつもなくぼかげた残酷なシステムに反対する運動に、また出会うことができて大変嬉しく思っている。……私は伝統的な医学や生体解剖に携わっているリーダーたち、すなわち医学界の大半の医師たちを支配し、彼らが自ら判断を下したり見解を表明したりする権利を否定している人々に強く抗議する。」
「十二年間も外科医をしてきたので、� ��はひじょうに現実的で何事にもぴくともしない人間になっている。だから誰も私を臆病であるとか感傷的だと非難することはできない。この重要な点を強調させてもらった上で、私は生体解剖は大変な間違いであり、動物を使った実験は、内科、外科、歯科、どの分野においても、またどのような理由においても正当化できるものではないと言おう。」
「人間に起こる小児まひの原因を、実験的に病気を起こさせた猿で類推したりする
と、まったくかけ離れた結論に達する恐れがある。たとえば黄熱などの場合、ウィルスは異なる宿主ではそれぞれ異なった動きをすることが知られている。」
「人間における腫瘍形成(がん)の組織、症状、診断、治療などの知識はすべて臨床試験で直接この間題に取り組� �だ結果得られたものであり、研究所の実験などは、実際には何の役にも立っていないのである。」
「私は、内科、外科の研究で、犬を実験に使うことに強く反対している。動物実験については多々討議されているが、これは残酷で、本当の科学とはかけ離れたものだというのが私の意見である。医者を育成する過程において、動物実験の価値が過大評価されている。」
「一部報道機関が故意に行なったことも原因して、人々は医学を代表する者たちを神であるかのように崇めるようになり、病める人類の救済を目的としているという理由で、医師たちの言動は神聖なものであると見なすようになってしまった。理想と熱意に燃えて医師という職業につくことを選んだ我々のような若い医学生も、またそのように思った。
か� �てドルイド僧たちがケルト族に捕虜は祭壇で殺すか、火の中に投げ捨てるべし≠ニいう法に則って行なったように、我々の尊敬する教師たちが、倫理を無視し、動物実験を行なうことによって無力な生き物に対して残酷で心ない仕打ちをしているとは、思いもよらぬことだった。
我々は美的、哲学的、芸術的な講義を聴講したり、劇やオペラに感動したり、教会のオルガンのすばらしい音色や聖歌隊の厳粛な歌声に聞き入ったり、審美的な本を読んで最上の精神的高揚を得たり、絵画を鑑賞したり、楽しく野外を散策し自然にふれてよい気分になったりすることで精神生活を充実させている。だが、こうしたことが行なわれているその裏で、大学の研究所の地下やたくさんの病院では、鉄の檻に閉じ込められた犬が� �酔から醒め、苦痛のうめき声を出してもがいている。
犬たちはわらの寝床で言葉につくせないほどの苦しみにのたうちまわっている。そしてよろよろと体を引きずるようにして水を求め、渇いたのどを少しでも潤そうとしている。また体の傷口の耐えられないほどのかゆみから逃れようとしても、体に精巧にはめられた器具がそれを許さないのだ。狂乱状態に陥っている犬たちの忠実そうな目は絶望に満ちている。他の動物はまったく無感情な状態でうずくまり、繰り返し起こる痛みに、その身は痙撃している。手足を切断されたり、切り裂かれたり、毒物を注入されたり、日夜ぐるぐる回るドラムの中で力の尽きるまで足らされたり、むごい火傷を負わされ、飢餓やのどの渇きに耐え、冷凍されたり、窒息させられたりしているの� ��。多くの場合、彼らがこのような痛みから解放されるのは、死をもってしかない。
このような光景を見た者なら、おそらく誰でも神の存在を疑い、万物で最も残忍な生き物である人間に対して、おおいなる怒りを覚えることだろう。そして、このような無慈悲で偽善的な科学の実態を公に暴くこと、文明に対する犯罪ともいえるこの行為を消滅させようと心に誓うことであろう。このような恥ずべき行為のもとに築いた栄光や肩書が、なんと空虚で無意味なことかー・このようなひどいことに対して何か言いわけがあるというのか? 盲目の魂をもつ医師たちのみが、それを弁明することができるであろう。
しかし、この恐ろしい研究方法を弁明する者たちは、哀れみを感じる心が麻痺しており、聞く耳を持っていないので、私はむしろ、彼らの使っている言葉と簡� �な考え方で敢えてやりたい。
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