(6頁からの続き)■スリーマイル島で何が起きたのか
原子炉が普通の状態で運転している間は、燃料エレメントを収めている炉心は普通の軽水で冷却され、華氏550度前後で保たれている。しかし、もしパイプが破裂したり、バルブが詰まったり、水の流れがスムーズに行かなくなったりしたら、燃料エレメントは熱の為に溶ける恐れがある。この他にも色々なケースが考えられる。もし、溶けた核の燃料エレメントが溶け出したら、そいつはドロドロの塊となって原子炉の容器を突き破り、地殻を突き抜けて、地球の反対側に飛び出すこともあり得る――。
アメリカの核技術者達は真剣に、そして些か大袈裟に、アメリカの原子炉から出た核燃料の塊が、地球の反対側の中国の何処かに飛び出すだろうと考えた。そして、この� ��象を「China syndrome」と名付けた。彼らは緊急炉心冷却システム Emergency Core Cooling System(ECCS)について研究を始めた。1970年代の初めである。
1971年7月、「憂慮する科学者同盟 Union of Concerned Scientists(UCS)」と呼ばれるグループがECCSの小規模な実験を幾度も行った。しかし何度繰り返しても、コンピュータで予測した結果は得られなかった。
≪≪米原子力委員会 Atomic Energy Commission(AEC)もこのグループの動きを無視出来ず、アイダホ州のアイダホフォールズ Idaho Falls にあるAECの実験炉でのテストを認めた。慎重に炉心を冷却する為に注入された水のうち、炉心に達したのは極僅かだった。福島第1原発の水注入が大した効果がないことは1971年のテストで証明済みだった。≫≫
このテストの失敗は新聞で広く報道され、全米ネットワークのテレビ局2局が特別なニュース番組を組み、原子力産業の信頼性を大きく傷付けた。AECはECCSについて公聴会を開かざるを得なくなった。公聴会は述べ125日間に及んだ。ここで明らかになったのは、「憂慮する科学者同盟」に、原子力産業の内部資料が沢山送られたことであり、ここが日本とは異なるところだ。
この公聴会を通して原子力反対運動の輪が広がり、世界中で盛り上がった。科学的疑惑と官僚主義への不満へと進展した。1974年夏、「原子炉安全調査 報告書」が出た。マサーチューセッツ工科大学 Massachusetts Institute of Technology(MIT)のノーマン・ラスムッセン教授 Norman Carl Rasmussen(1927-2003)の名を採って「ラスムッセン報告 Rasmussen report」と言う。
しかし、この報告書の中に、「大災害を伴う原子炉事故が起きる確率は、隕石が都市に落下する確率とほぼ同じで、100万年に1回程度である」という劇的な結論が書かれていた。ラスムッセン達はコンピュータを用いて、それぞれの条件を入れたのだった。金融工学を使ったウォール街の連中が「恐慌などあり得ない」と言うのと同じだった。AECから原子力行政を引き継いだ原子力規制委員会(NRC)さえも、ラスムッセン報告 Rasmussen report を正式なものとしなかった。
〔資料〕『The China Syndrome』 - Wikipedia
〔資料〕Union of Concerned Scientists(UCS) - Wikipedia
〔資料〕City of Idaho Falls - Wikipedia ※茨城県東海村の姉妹都市
〔資料〕Massachusetts Institute of Technology(MIT) - Wikipedia
〔資料〕Norman Carl Rasmussen(1927-2003) - Wikipedia
〔資料〕Rasmussen Reports - Wikipedia
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別の方向から見てみよう。
1960年代半ばに、メトロポリタン・エジソン電力会社 Metropolitan Edison Company〔※現・Met-Ed〕が巨大な原子力発電基地を、ペンシルベニア州ハリスバーグ Pennsylvania, Harrisburg 近くのサスケハナ川 Susquehanna River の中州であるスリーマイル島 Three Mile Island に建設すると発表した。
スリーマイル島1号原子力発電所 Three Mile Island Unit 1(TMI-1)建設に対して特別の反対はなかったが、TMI-1が操業開始して2年後から、周辺の市や村に少しずつ異変が起き始めた。TMI-1より更に大規模な原子力発電所Three Mile Island Unit 2(TMI-2)が1979年1月に本格的な操業を開始していた。発電所の周辺では犬や猫が流産したり、奇形のアヒルが生まれたりした。乳牛も子牛も死んでいった。
1979年3月16日、ハリウッド製のサスペンス映画『チャイナ・シンドローム The China Syndrome』がアメリカで公開され、大ヒットした。この映画で、「メルトダウン Nuclear meltdown(炉心溶融)」という言葉の意味を一般人が知るようになった。
TMI-2原子炉は1978年12月28日に運転を開始。その後、数週間もしないうちに、タービン試運転中にバルブが2つ故障した。翌年2月1日には、節気弁の故障で放射性物質の漏出があった。その1日後にはまた、パイプの密封シールが飛んでしまった。
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