和服 - Wikipedia
和服(わふく)とは、日本在来の衣服のこと。狭義の着物と同義(詳細は後述)。近年では日本における民族服ともされる。
[編集] 和服・着物・呉服の意味
和服は、文字通り「和」の「服」、すなわち日本の衣服という意味である。この言葉は明治時代に、西洋の衣服すなわち「洋服」に対して「従来の日本の衣服」を表す語として生まれた。後述するように「着物」という単語は本来衣服一般を意味するため、特に曖昧さを避けたい場面においては「和服」という語がよく用いられる。
着物(きもの)は、「キるモノ」(着る物)という意味であり、本来は単に「衣服」を意味する語である。実際、洋服が日本で普及する以前は、日本人は衣服一般を「着物」と呼んでいて、着物という言葉に日本文化と西洋文化を区別する意味はなかった。しかし明治時代以降、洋服を着る人が日本で増え始めたため、洋服と区別するために日本在来の衣服を和服と呼ぶようになっていった。
時代が進み、日常生活で頻繁に洋服を用いるようになると、「着物」は着る物という衣服本来の意味は薄れていき、和服の意味が濃くなっていった。現代での着物の意味は、和服、または狭義において一定の形式の和服(羽織や振袖など、現代主に着用する和服)を指す言葉に移りつつある[1]。
裸の子供に「着物を着なさい」というときの「着物」は衣服の意味だと解釈する人がいるが、そうではなく和服の意味だと解釈する人もいる。「着物を着なさい」の「着物」が衣服と和服のどちらを指すのかは、世代・方言によって違う可能性がある。
呉服の語源は、中国が三国時代のときに呉の織物や着物の縫製方法が日本に伝わったことにあるとされる。元々は絹製品を呉服、綿製品は太物(ふともの)と称し、昔は扱う店も別であった。和服そのものを指す語としては「和服」「着物」に比べ使用頻度は低いが、和服を扱う店は「呉服屋」と呼ばれることが多い。
日本で和服という言葉が生まれる明治時代よりもずっと前の16世紀の時点で、日本人が衣服のことを指して呼んだ着物(kimono)が、現在で言う和服を表す語としてヨーロッパ人に知られるようになり、現在ではヨーロッパに限らず世界の多くの言語で日本で和服と呼んでいる物を kimono と呼んでいる。kimono は、日本の和服だけではなく、東アジア圏全般で見られる前合わせ式の服全般を指すこともある。
現在の一般的な日本語では、服飾とは、衣類と装身具を指す総称である。服飾は、和服にも洋服にも用いられる言葉である。
[編集] 縄文時代・弥生時代
縄文時代の身体装飾については石製や貝製の装身具などの出土事例があるが、衣服に関しては植物繊維などの有機質が考古遺物として残存しにくいため実態は不明である。ただし、編布の断片やひも付きの袋などの出土事例があり、カラムシ(苧麻)・アサ(麻)などの植物繊維から糸を紡ぐ技術や、できた糸から布地を作る技術はあったことがわかる。この編布から衣服が作られて着られていたと推測されている。
縄文時代には人形を模した土偶の存在があるが、土偶の造形は実際の身体装飾を表現したとは見なしがたい抽象文様で、実際の衣服の実態をどの程度反映しているかはっきりしない。
弥生時代の衣服についても、出土事例は少なく、『魏書』東夷伝の一部の「魏志倭人伝」によって推測されているのみである。魏志倭人伝の記述によると、倭人の着物は幅広い布を結び合わせている、男性は髪を結って髷にしているとある。
[編集] 古墳時代・飛鳥時代
古墳時代の日本の衣服については、ほとんど分かっていない。7世紀の中頃までについては、日本列島で書かれた最古の歴史書である『古事記』及び『日本書紀』、そして『風土記』のみが、この時代の歴史学上の資料となっている。考古学資料としては、埴輪だけが、古墳時代の衣服を知る上での手掛かりになる。これらの資料から、男女ともに、上半身を覆う服と、下半身を覆う服の2つに分かれていたと推測されている。しかし『古事記』と『日本書紀』に服の図は描かれていないし、現存する当時の資料が極めて少ないため、分からないことが多い。
603年に、聖徳太子が、優れた人を評価する冠位十二階を定めて、役人の位階によって冠の色を分けて、役人を区別した。ただし、『日本書紀』に冠位十二階を定めたときの記述があるものの、その記述中には、それを定めたときにどの位階にどの色を使って区別したのかが書かれていない。『日本書紀』に、服の図は描かれていない。
7世紀末ごろに、国号が日本と決められた。7世紀末から8世紀初めに作られた高松塚古墳の壁画が1972年から研究された。飛鳥時代の人々の姿が描かれたもので現在も残っているのは、高松塚古墳の壁画だけである。その壁画の一部に描かれていた男子と女子の絵と、『日本書紀』の記述が、飛鳥時代の衣服の考古学上の資料である。現在の研究者達の報告によると、高松塚古墳の壁画の人物像では、男女ともに全ての衿の合わせ方が左衽(さじん)、つまり左前だったという。その壁画では、上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服と体の間に入っていないで、外に出て垂れ下がっているという。その壁画に描かれた服の帯は革でなく織物ではないかと推測されている。
[編集] 奈良時代
この時代の日本の衣服については、はっきりしたことは分かっていない。令義解、令集義解、『続日本紀』(しょくにほんぎ)、『日本紀略』(にほんぎりゃく)などの書物と、正倉院などに現在残っている資料が、奈良時代の衣服について研究するための主要な資料である。令義解・令集義解・『続日本紀』に、服の図は描かれていない。
和服は奈良時代の中国の唐の漢服の影響を受けているとされ、意匠的に漢服に似ている部分は多い。中国の礼制が日本の有職故実の一つの要素。前合わせで帯を締める構成が基本となっているなど、基本的な構成にも似た部分がある。有職故実にも通じ平安時代の三大故実書のひとつ『北山抄』を著した。
701年に制定された大宝律令と、大宝律令を改めて718年に制定された養老律令には、衣服令が含まれていた。大宝律令は現在残っていない。養老律令も現在残っていないが、令義解と令集義解から養老律令の内容が推定されている。大宝律令と養老律令の衣服令により、朝廷で着る服が定義され、礼服(らいふく)、朝服(ちょうふく)、制服が定められた。現在、奈良時代の礼服は、「れいふく」ではなく「らいふく」と読む。養老律令の衣服令によると、奈良時代の礼服は、重要な祭祀、大嘗祭(おおなめのまつり,だいじょうさい)、元旦のときに着る服である。養老律令の衣服令によると、朝服は、毎月1回、当時朝庭と呼ばれた場所で朝会と呼ばれるまつりごとをするときと、当時公事と� ��ばれたことを行うときに着る服である。奈良時代の朝会は現在の朝礼の意味ではない。武官の朝服には、ウエストを固定するための革のベルトがあったと考えられている。奈良時代の制服は、特別な地位にない官人が朝廷の公事を行うときに着る服であるという説がある。大宝律令と養老律令の衣服令は、朝廷と関わりのない庶民の衣服については定めていない。養老律令の衣服令によると、礼服・朝服・制服の形式・色彩は、それぞれの地位や役職によって違うものだった。
養老律令の衣服令によると、武官の礼服と朝服の規定に、位襖(いおう)が含まれていた。研究者達により、位襖は、地位によって違う色を使った襖(おう)であることが分かっている。位襖の服の形状は、襖と同一である。『古記』によると、襖とは、襴(らん)がなく、腋線の部分を縫わない服である。後の時代に闕腋の袍(けってきのほう)と呼ばれる服とこの時代の襖は、襴がない点と、腋線の部分を縫わない点が、共通している。
養老律令が制定された718年の時点で、文官の礼服を構成する物の中に、襴が付いた服があったと推定されている。文官の襴が付いた服は、後の時代に縫腋の袍と呼ばれる服の原形であろうといわれている。
奈良時代の服飾は、中国大陸の唐の影響を受けたものであった。この頃の中国大陸では襟の合わせ方は右前(右衽)だったという説が多い。『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に行った政策の記述の中に「初令天下百姓右襟」という文がある。「初令天下百姓右襟」の意味は、全ての人々は衿の合わせ方を右前(右衽)にしなさい、という意味である。
[編集] 平安時代
この時代の日本の皇族・貴族の服飾については平安装束を参照。現在、平安時代の庶民の衣服についてはよく分かっていない。
[編集] 鎌倉・室町時代
庶民が着ていた水干が基になって直垂(ひたたれ)ができた。鎌倉時代、直垂は武家の礼服になった。室町時代へ入ると直垂は武家の第一正装となった。
大紋(だいもん)、素襖(すおう)が出現した。
女性用の衣服も簡易化の一途をたどった。裳(も)は徐々に短くなり袴へと転化、やがて無くなった(女子服飾のワンピース化)。この後は小袖の上に腰巻き、湯巻きをまとう形になった。小袖の上に丈の長い小袖を引っ掛けて着る打掛ができた。
[編集] 江戸時代前期
江戸時代になると一層簡略化され、肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)とを組み合わせた裃(かみしも)が用いられた。庶民の文化として小袖が大流行した。歌舞伎などの芝居が流行し、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介されると、庶民の装いは更に絢爛豪華なものとなった。これに対して幕府は、儒教的価値観から倹約令にて度々規制しようとしたが、庶民の服飾への情熱は収まらず、茶の湯の影響もあって、見た目は地味だが実は金の掛かっているものを好むようになった。
帯結びや組みひもが発達し、帯を後ろで結ぶようになった。
[編集] 江戸時代後期
鎖国政策により、国外から絹を輸入しなくなったため、日本で使用される絹のほとんどは国産のものとなった。江戸時代に絹でありながら比較的安価な縮緬を着用する庶民もいたが、1783年から1788年頃にかけて天明の大飢饉が発生したため、幕府は1785年に庶民が絹製品を着用することを禁止した。庶民は木綿製もしくは麻などの衣服を着用した。下町には端切屋の行商がたびたび訪れ、庶民は買い求めた端切れの布で補修しながら大切に衣装を使用した[2]。
女子服飾は長い袂(たもと)の流行から婚礼衣装の振袖ができた。
1864年には、禁門の変を理由に長州征伐の兵を挙げた幕府が、その時の軍服を西洋式にすることを決め、小伝馬町の商人である守田治兵衛が2000人分の軍服の製作を引き受け、試行錯誤しながらも作り上げた。日本においての洋服の大量生産は、記録に残る限りこれが最初だといわれる。
[編集] 明治・大正時代
明治時代になると、政府の産業育成の動きも手伝って、近代的な絹の製糸工場が建設され、絹の生産量が一層高まった。日本は開国したため国外との貿易が発展し、絹糸(生糸)と絹製品の輸出額は全輸出額の内大きな割合を占め、世界的に日本は絹の生産地と見なされるようになった。絹糸の大量生産に伴って、絹は他の商品と比べてそれほど高価ではなくなった。女性の和服に様々な種類の生地が用いられるようになった。それに伴い絹織物も、縮緬・綸子・御召・銘仙など種類が増えた。出来上がった生地は染色技術の発達により二次加工され、今までにない友禅文様が可能になった。絹の小紋染めの流行は、江戸時代から引き続き、伝統的な晴着として大いに人気を集めたが、あらかじめ先染めの糸で文様を織り出した縞や絣も好� �れた。
明治時代以降、華族や西洋人と接する機会の多かった人々の間では比較的早く洋服が定着した。政府の要人の場合は、洋服を着ることにより、日本が西欧の進んだ科学技術を学び近代化を目指す意欲を西洋の外国人にアピールし、交渉などを有利に進める目的があったといわれている。庶民は、洋服がまだ高価だったことや、伝統への美意識やこだわりなどから江戸時代以来の生活の様式を保持し続けた。西洋からの服飾の輸入がなされ、間もなく日本国内でも洋服が作られるようになった。以前は日本在来の衣服を「着物」と呼んでいたが、元々着物には服という意味しかない。そこで洋服と区別するために、以前「着物」と呼んでいた服を「和服」と呼ぶようになった。
洋服が登場し始めた頃は、貸衣装屋から洋服を借りて着用するのが普通だった。明治時代には洋服は主に男性の外出着や礼服であり、日常はほとんど和服が使われた。小規模ながらも各地に洋服の貸し出し店や洋服販売店ができるようになった。
1871年に陸軍や官僚の制服を西洋風に改めることを定めた天皇の勅諭(太政官布告399号「爾今禮服ニハ洋服ヲ採用ス」)が発せられた以後、警官・鉄道員・教員などが順次服装を西洋化していった。男性は、軍隊では軍服の着用が義務付けられたが、このときの軍服は洋服である。また陸軍の軍服を規範に作られた詰め襟の洋服である学生服が男子学生の制服として採用された。
明治・大正時代に学校の内外で女学生が日常的に着る服として、女性用の行灯袴を好んで着用し、女学生の袴姿が流行した。袴は、和服である。これが日本文化として定着し、現在でも、入学式・卒業式などで、袴を正装の一部として好んで着用する女学生がいる。女性は華族や女子教育にあたる教員など一部を除きもっぱら和服であったが、大正時代後期から、女学校の制服にそれまでの袴に代えて洋服であるセーラー服が採用される例が増える。
日本の女性の衣服を洋服に変えていこうと主張・運動する女性達がいた。1922年5月4日から11日までに開かれた生活改善講習会において、塚本はま子は「衣服の改善」という題の講習の中で、「現代社会に適合した美的且つ便利、経済的な改善を斬新的に行っていくこと。方向としては洋服のみの生活を示唆している」と述べ、また嘉悦孝子は『經濟改善 是からの裁縫』(けいざいかいぜん これからのさいほう)(日本服装改善会出版部、1922年)の序文で「私は日本服装改善の到達点は、洋服か洋服に近いものであらうと存じます」と書いた。
1923年の関東大震災では、身体の動作を妨げる構造である和服を着用していた女性の被害が多かったことから、翌1924年に「東京婦人子供服組合」が発足し、女性の服装にも西洋化が進むことになる。
なお和服は元々中国の漢服の影響を受けて発達したためデザインが似ており(実際の構造はかなり異なるが)、1900年ごろ清の朝廷から逃れて日本で革命運動をしていた中国人活動家の中には、満州族が支配する清朝に対する漢民族の抵抗のシンボルの1つとして、漢服の代用品として和服を愛用した活動家も多かった。
[編集] 昭和 1945年の終戦まで
1881年から1945年頃まで、日本の小学校の女性の生徒は、ある学年になると、和服などの服飾を作るための裁縫を授業で学んだ。この裁縫の教育の目的は、裁縫の専門家を育てるためではなく、また、女性が工場で裁縫の仕事ができるような技術を身に付けるためでもなかった。この裁縫の教育の目的は、女性が家庭で自身や家族の衣服の裁縫ができるように、女性に和裁としての裁縫の基本的な技術を教えることであり、強く奨励された。当時は一般にミシンはなく、手縫いであった。
1935年にアメリカ合衆国のデュポン社が、ナイロンという化学繊維を合成することに成功した。1939年頃からアメリカ合衆国でナイロンが工場で大量生産された。ナイロンは絹の代替品として使われたため、対外的な日本の絹糸・絹製品の輸出は減っていった。
1938年、『婦人公論』の誌上で、非常時女子服のコンテストが行われた。
1939年11月14日から1939年12月10日まで、日本政府は男性用の国民服の様式の案を広く一般から懸賞を付けて募集した。応募された案の審査が行われ、意見交換や様式の変更がなされた後、
1940年7月6日、奢侈品等製造販売制限規則が公布され、同年7月7日に、施行される(通称「七・七禁令」)。絵羽柄のもの、刺繍、金銀糸を使用したもの、紬でも高価なもの等が贅沢品とされ、禁止される。これにより、白い半衿が流行する。
ここで、キングジョージルールをしました
1940年11月2日に日本政府は、国民服令という勅令(法律の一種)を施行した。その国民服令の中で、男性用の正装の衣服として、国民服を定義した。国民服令は、男性用の正装の衣服以外の衣服については全く言及していない。国民服令の内容によると、国民服には「甲号」と「乙号」の2つのタイプがあった。国民服の甲号と乙号のそれぞれについて、「上衣」、「中衣」、「袴」(国民服令でいう袴は、下半身を覆う服の総称)、「帽」(帽子のこと)、「外套」(「がいとう」と読み、オーバーコートのこと)、「手套」(「しゅとう」と読み、手袋のこと)、「靴」の様式が決められた。上衣と中衣はともに上半身を覆う服である。上衣は、中衣を着た後に重ねて着る服である。上衣は� ��襟であり、中衣は開襟でない服である。全てのタイプの国民服は筒袖であり、ボタンで布を固定させるので、国民服令の国民服は和服ではない。
国民服令では、「礼装」をする場合、つまり儀式などで礼服を着る場合は、国民服の様式が細かく定められた。礼装しない場合は「適宜」とだけ指定される部分が増える。国民服の甲号で礼装する場合、上衣、「袴」(形は洋服のズボン)、帽子、外套の全ての色が「茶褐色」と決められた。礼装しない場合の国民服の甲号では、上衣と「袴」だけが茶褐色であり、他の部分の色は「適宜」とだけ指定された。礼装するときは必ず国民服の上衣を着た。国民服の中衣は肌着・下着ではないので、上衣を脱いだ状態でも外出できた。国民服の甲号の帽子は、礼装する場合は、ひさしが付いた烏帽子型とされ、礼装しない場合は「適宜」とされた。国民服の乙号の帽子は、礼装する場合は、陸軍略帽型でもいいが他の帽子でも構わない とされ、礼装しない場合は「適宜」とされた。国民服令によると、国民服は、正装かつ礼服であり、背広を着るような場面で着る服だと決められた。それ以外のときは、国民服を着る義務はなかった。国民服令により国民服が正装であると決められたので、結婚式で新郎が正装するときや葬式に出席するときは、男性は国民服で礼装した。
国民服令の条文には罰則がなかった。男性が国民服を着用する義務を規定する法律はなかった。男性の普段着に関しては自由だった。民間業者が工場で国民服を大量生産し、国民服配給会社が国民服を大量に配給した。裕福な男性の中には個々の体型に合わせて採寸して国民服が仕立てられたこともあった。国民服の日本国民への普及を目的とする、大日本国民服協会は、『国民服』という定期刊行物を出版、配布した。1945年の終戦までの間、生産される男性用の衣服は国民服ばかりになっていた上、本土決戦の機運が高まり、強制されなくても国民服を着ざるをえない男性が増えていった。
1942年までに日本の当時の厚生省は、当時の女性用の衣服の改善方法を研究する目的で、懇談会・研究会を開いた。それらの会には、服飾を専門とする職業を持つ女性も参加した。1942年に厚生省は、女性用の新しい様式の服を婦人標準服と名付けて発表した。婦人標準服を定めた目的の1つは、材料の布を節約することだった。婦人標準服の着用が法律上の強制力を持つことは一度もなかった。婦人標準服に関して行政上の公的な文書として残ったのは、婦人標準服を定める前に書かれた次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」だけである。次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」は、どのようなデザインの婦人標準服が望ましいのかが書かれている文書であり、具体的な婦人標準服のデザインを決めた文書ではない 。
婦人標準服には、洋服の特徴を持つ「甲型」というタイプと、和服の特徴を持つ「乙型」というタイプがあった。婦人標準服の甲型と乙型のそれぞれに、いくつかの様式の服の形が決められた。婦人標準服の甲型と乙型のそれぞれに、「活動衣」と呼ばれた、実用性を最優先させた様式が含まれていた。婦人標準服の甲型では、上半身を覆う服とスカートに分かれている様式と、裾がスカート状のワンピース型があった。乙型の服の1つとして、その頃に典型的だった女性用の和服の様式を、上半身を覆う服と下半身を覆う服に分け、袖丈を短くした和服があった。これは、上下に分かれたツーピース型の和服である。婦人標準服の甲型の活動衣の、下半身を覆う服は、両足を別々に包むスラックスだった。婦人標準服の乙型の活動� �の、下半身を覆う服は、もんぺの形だった。もんぺは、1930年代頃までは、北海道・東北地方で、防寒用、農作業、または普段着として使われた袴だった。袴の一種であるもんぺは和服であるといえる。スラックスともんぺはどちらも、左右の足を別々に包む下半身用の服である。もんぺの腰の部分にゴム紐がないのは戦争のせいでゴムが足りなくなったからだという説があるが、元々もんぺはゴム紐ではなく布の紐で腰を結ぶ服だった。
婦人標準服はほとんど普及せず、婦人標準服を考案した人達の思惑は外れた。次官会議諒解事項「婦人標準服制定に関する件」の6番目の項目には、婦人標準服の制作が各家庭で行われることを前提にして、婦人標準服のデザインを決めるべきであるという旨が書かれていた。現在、戦争時に女性達が裁縫という労働を無理矢理させられて被害を受けたと主張する者がいるが、第二次世界大戦が始まる前から、家庭の女性が自身と家族の衣服を作ったり裁縫で修復することは日常的に広く行われていた。実際、婦人標準服は、工場で大量生産されることも、大量に配給されることもなかった。婦人標準服の生産は、各家庭の余剰布や古着を原料として、女性らが自家裁縫で婦人標準服に作り替え、自身や家族の服として着るという形だった 。婦人標準服の制作が強制されることはなく、婦人標準服の制作は、各家庭の女性の判断に委ねられていた。そのため、女性は婦人標準服を作らなくてもよく、作った場合でも、女性の自由な判断で、婦人標準服とは少し違う個性的なデザインの服を作る人もいた。婦人雑誌などの付録では「有事特別付録」と称して標準服の型紙が付いた号も出版された。女性用のもんぺは伝統的な和服よりも、活動的な動作に向いている。しかし女性のもんぺ姿を美しくないと考え低く評価する男性達もいた。1940年頃から、女性が家の外で作業するときに下半身を覆う服として、もんぺが政府から推奨される機会は、徐々に増えていった。しかしその推奨によってもんぺを着用する女性が増えることはなく、もんぺを着用する女性が増えた原因は空襲だ った。防空演習では、女性はもんぺなどの活動的な衣服を着用して防空演習に参加するよう推奨されたため、女性の多くが防空演習に参加するときにもんぺを着用した。米軍が日本本土の上空から、民間人をも攻撃対象にして空襲を行う頻度が多くなり、1945年の終戦前頃は、地域によってはほぼ毎日、空襲による被害を受けるようになっていった。民間人が空襲の被害を受けることが多くなるにつれて、多くの女性がもんぺまたはスラックスを履くようになった。
中山千代が、『日本婦人洋装史』で次のように書いている。「筆者の戦時生活体験にも、婦人標準服は甲型も乙型も着用しなかった。周囲の女性たちも同様であって、標準服両方の着用は、ほとんど行なわれていない。政府の意図した婦人標準服による日本精神の具現は、成功しなかった。しかし、空襲が始まると、すべての女性はズボンまたはモンペを着用した。これらは婦人標準服の『活動衣』に指定されていたが、婦人標準服として着用されたのではなかった。決戦服と呼ばれたように、絶体絶命的に着用しなければならない服装であった。」
1943年6月4日に、戦時衣生活簡素化実施要綱が日本の政府で閣議決定された。戦時衣生活簡素化実施要綱の目的は、日本の国民の衣服を簡素化することと、繊維製品の使用の無駄を省き節約することだった。戦時衣生活簡素化実施要綱そのものは、法的な強制力がない努力義務のガイドラインのようなものであるが、後に戦時衣生活簡素化実施要綱を推進するための法律が制定される。戦時衣生活簡素化実施要綱では、男性用の衣服を新しく制作するときは、色は自由とし、形は、国民服の乙号のタイプか、これに似たものに限定することとした。男性の小学生以外の学生・生徒の制服を新しく制作するときは、国民服の乙号を作ることとした。男性の小学生の制服は規制しないこととした。専門学校以上の女性の学生・生徒の制服を 、なるべく婦人標準服に変えてもらうよう働きかけることとした。華美を追求しないものの、女性の美しさを失わない婦人標準服が、大人の女性達の間で普及するように、政府が努力することとした。
戦時衣生活簡素化実施要綱は、既に所有している服を着ることを禁止せず、女性達にもんぺの着用を強制するとも、衣料切符の献納を推奨するとも書かれてはいない。同要綱には、女性が既に持っている服のうち婦人標準服でない服を婦人標準服に作り替えなさいという文言も書かれていない。戦争が長引くにつれ、衣料切符で新品の衣類を入手することは、極めて困難になっていった。
大日本婦人会が定めた「婦人の戦時衣生活実践要綱」は、新調見合せ・婦人標準服着用・衣料切符の節約などの内容が盛り込まれたものだった。
1943年6月16日に日本の政府は、1940年11月2日の国民服令を緩和する国民服制式特例という勅令を施行した。20世紀に日本の中央の政府(地方を除く)が国民服の様式を規定した法律は、国民服令と国民服制式特例だけであり、他にはない。国民服制式特例の第1条により、礼装しない場合の国民服の上衣の色の指定はなくなり、礼装する場合の国民服の上衣と外套の色は、茶褐色、黒色、濃紺色、または白色のいずれかでよいとされた。ただし、上衣と外套の白色を選べるのは暑い地方や暑い夏の時期に限られた。国民服制式特例により国民服令の甲号と乙号が1つに統合されたという説があるが、国民服制式特例にそのようなことは書かれていない。
[編集] 昭和 1945年の終戦後
第二次世界大戦が終わった1945年以降の女性達は、空襲がなくなったので、所持していたが着られなかった和服を着るようになった。終戦直後にはもんぺを着る女性も多くいたが、貧しさと戦争を思い出させるもんぺはすぐに廃れていった。
しかし、和服が高価であり着付けが煩わしいことなどが原因となってか、安価で実用的な洋服の流行には敵わず、徐々に和服を普段着とする人の割合は少なくなっていった。ただし、1965年から1975年頃までは、和服を普段着として着る女性を見かけることが多かった。その頃に和服の人気を押し上げ、流行させたのはウールで仕立てられたウール着物である。ウール着物は色彩が美しく、カジュアルで気軽に着られる普段着の和服として日本中の女性の間で流行となった。しかし、その後も和服ではなく洋服を着る人の割合が増え、呉服業界(呉服業界とは、和服・反物の生産・販売の産業のこと)は不振に追い込まれた。呉服業界が、販売促進の目的で、種々の場面で必要とされる和服の条件というような約束事を作って宣伝した。このた め、庶民は「和服は難しい」というイメージをより強く持つようになった。この結果、呉服業界はさらに不振になり、反物など織物生産を担う業界の倒産が相次いだ。
1960年代までは自宅での日常着として和服を着る男性も多くいたが(1970年代までの漫画での描写からも伺える)、次第に姿を消していった。
1960年代の欧米の文化人やミュージシャンの間では、東洋的な思想や宗教が流行したことがあり、中には着物(あるいは着物に似せてデザインした服)を着る者も見られた。ロックギタリストのジミ・ヘンドリックスなどが代表例。
[編集] 平成
日常的に和服を着る女性を見かける機会は少なくなったが、冠婚葬祭(七五三・成人式・卒業式・結婚式といったイベント)においては、着用が一般的になっている。 また、浴衣については、花火大会・夏祭りといった夏のイベントの衣装として浸透しており、柄・素材とも多彩になっている。平成の浴衣は、かつての湯上がり着の延長だった時代とは見違えるほど鮮やかでファッション性も高く、「ギャル浴衣」なども登場している。デパートなどは開放的な水着ファッションと、隠して魅せる浴衣という二本柱で夏の商戦を仕掛けている。 ファッションとしての浴衣は男性にもある程度着られているが、女性ほど一般的ではない。また、日常的に和服を着る男性は、女性と比べて少なく、作務衣・甚平が宗教関係者・職人など少数の男性に好んで着られているほかは、ほとんど見かけなくなっている。一方で、男性の和服着用を推進する運動も、インターネットなどを中心に一部で起こっている。
1990年代後期からアンティーク着物(昭和初期以前のもの)やリサイクル着物(昭和中期以降)の店が激増し、雑誌を火付け役として女性の間で徐々に着物ブームが起こっている。これまでと異なるのは、従来の約束事にこだわらず洋服感覚で着る人が増えたことである。洋服地で着物や帯を作ったり、洋服と重ね着したり、足下にパンプスやブーツを履いたり、帯揚げにレースを使うなど新鮮な着こなしが楽しまれている。
[編集] 和服の特徴
和服は、腰の位置で帯(おび)を結ぶことによって長着(ながぎ)を体に固定させる。腕の太さよりもずっと広い袖(そで)を持つ。長着や羽織では、袖のうち一部を縫ってあり、これにより袖口は袖丈よりも短くなり、袖に袋状の袂(たもと)ができる。洋服の袖の特徴は、腕を細く包み、袖の中の空間的余裕が和服よりも少ないことである。洋服ではボタンや締め金を使って服の一部を固定するが、和服では帯や紐などで結ぶことによって固定する。和服に洋服のような開襟はない。和服の布地は、あまり伸び縮みしない。帯の材質は布である。帯に皮革が使われることはない。和服を反物から制作する作業において、反物を切る線のほとんどが直線であり、布の端と平行か直角に切られる。一方洋服を作るために布を 切るときは、曲線をたくさん使い、和服よりも複雑な形状な布の部品を作る。和服と洋服では、服を作るために布を裁断した後に発生する、使わずに余った布の量と形に、違いが現れる。和服を作るために布を切った後、使わない布として余るのは、反物の端の長方形の部分を除けばごくわずかである。また、残った反物の端は長方形なので、別の目的に利用しやすい。洋服を作るために布を切った後に余る不要な布は、長方形でない布が多く、別の目的に利用しにくい。和服が伝統的な裁縫の方法により作られた場合は、縫いつけた糸を和服から後で取り除いて分解することを前提にして和服が作られる。切れやすい糸を使って和服を縫うことにより、縫った糸が布を引っ張って布を損傷する危険を減らす。切れやすい糸を使うことによ� ��、和服を構成する各部の布を長持ちさせることができるが、衣服が身体を保護する力が低くなる欠点がある。
[編集] 体型を隠す和服
男性用・女性用とも、洋服を着たときは体の輪郭線に沿うように服が立体的に体を覆うが、和服を着た場合は、体の輪郭線は肩と腰だけに現れ、他の部分の体の輪郭線は和服によってほぼ平面的に覆い隠される。女性用の洋服では、体の凹凸と輪郭線を立体的に強調するようなデザインや作りになっているものが少なくないが、一方で、女性用の和服では、体の凹凸が隠され、筒状の外形になるような作りになっている。女性用の洋服では、胸元を服で覆わない作りになっている場合があるが、女性用の和服では、胸元は必ず覆われている。
女性が和服を着るときに用いられる和装ブラジャーは、胸のふくらみを抑えて、平らに近づける働きがある。また、和服を着るときに、体のへこんでいる部分にタオルなどの布を当てることがある。和装ブラジャーと、体のへこんでいる部分にタオルなどの布をあてるのは、着用した和服が着崩れないようにするためである。このことは体の輪郭線を隠す結果になる。
なお、体型を隠すように直線的に和服を着るべしとされたのは昭和30年代後半に入ってからのことである。和装ブラジャー、タオル等による補正もその頃に生まれた風習である。ちなみに、昭和30年代前半は、洋服の下着を身に付け、あえて体の線を強調して曲線的に着るのが良しとされ(例えば昭和32年の『主婦の友』4月号には、「体の美しい線を出す新しい装い方」という記事が掲載されている。)、それ以前は、それぞれの体形なりに着付けるのが良しとされていた。
[編集] 和服の構造
か- DEZ -ファンデ
- 掛衿(かけえり),共衿(ともえり)
- 本衿(ほんえり),地衿(じえり)
- 右の前身頃(まえみごろ)
- 左の前身頃
- 袖(そで)
- 袂(たもと)
- 左の衽(おくみ)
- 右の衽
- 剣先(けんさき)
- 身丈(みたけ)
- 裄丈(ゆきたけ)
- 肩幅(かたはば)
- 袖幅(そではば)
- 袖丈(そでたけ)
- 袖口(そでぐち)
- 袖付(そでつけ)
[編集] 長着を構成する部品(身頃と衽)
- 身頃(みごろ)
- 身頃は、右の前身頃・左の前身頃・後身頃をまとめて呼ぶ言葉。現在の和服の長着の標準的な裁断方法では、右の身頃と左の身頃の2つの布で身頃が構成される。左の前身頃と左の後身頃の肩は縫わなくても繋がっている。右も同様。
- 前身頃(まえみごろ)
- 和服の袖を除いた部分の、空間的に前の部分。背中の反対側を覆う部分。和服の前身頃は「右の前身頃」と「左の前身頃」に分かれている。
- 後身頃(うしろみごろ)
- 和服の袖を除いた部分の後ろの背中を覆う部分。基本的に背中心で縫い合わせるので右の後身頃と左の後身頃の2つの布で構成されているが、ウールなどの広幅の生地を用いて作る場合、後身頃が一つの布で構成されているものとの2つの形がある。
- 衽(おくみ)
- 和服の袖を除いた部分の前の左の端と右の端にあり、上は衿まで、下は服の最下部まで続く、上下に細長い布の部分。前身頃に縫い付けてある。「袵」とも書く。
- 上前(うわまえ)
- 和服の袖を除いた部分の前の左(向かって右)。上前は、左の前身頃、左の衽、そして左の襟の一部を指す言葉。和服を着るときに右前、つまり右衽(うじん)に着るので、左の衽の方が右の衽よりも空間的に前に位置することになる。全ての物に仏性があるとする日本の慣習で主体から見た視点で言葉が当てられるため、外気に触れる服の表面に近い方、つまり着物を着た人から見て肌から遠い方を「上」と呼ぶ。そのため、左の衽・左の前身頃などを上前と呼ぶ。
- 下前(したまえ)
- 和服の袖を除いた部分の前の右(向かって左)。下前は、右の前身頃、右の衽、そして右の襟の一部を指す言葉。和服を着るときに右前、つまり右衽(うじん)に着るので、右の衽のほうが左の衽よりも空間的に後ろに位置することになる。全ての物に仏性があるとする日本の慣習で主体から見た視点で言葉が当てられるため、肌に近い方、つまり着物を着た人から見て外気に触れる服の表面から遠い方を「下」と呼ぶ。そのため、右の衽・右の前身頃などを下前と呼ぶ。
[編集] 長着を構成する部品(襟・衿)
- 衿(えり)
- 襟。本衿と掛衿。
- 掛衿(かけえり)
- 共衿(ともえり)ともいう。衿の内、首の回りの汚れやすい部分を覆った布の部分。表生地と同じ生地を用いるときは特に共衿と呼ばれ、汚れが目立たないように違う濃い色の生地を用いるときに掛衿、と呼ぶこともある。
- 地衿(じえり)
- 本衿(ほんえり)を参照。「地襟」とも書く。
- 共衿(ともえり)
- 掛衿(かけえり)を参照。「共襟」とも書く。
- 本衿(ほんえり)
- 地衿(じえり)、または単に衿ともいう。和服の縁の内、首の周りと胸部の位置にある部分に縫い付けた、細長い布の部分。衿は襟と同じ意味。本衿は襟の主要な部分である。本衿に掛衿を付加する。
[編集] 長着を構成する部品(袖)
- 袖(そで)
- 左右の腕を通す部分。
[編集] 長着の穴の名称
- 身八つ口
- 振八つ口
上の図のような和服の長着を帯を締めて着た状態では、首の部分・足の部分・右の袖口・左の袖口・右の振八つ口・左の振八つ口・右の身八つ口・左の身八つ口の8つの穴ができる。日本語で穴のことを口と呼ぶことがあり、特に和服等の衣類用語では一般に口を使う。和服の長着に8つの口があることになり、これが「八つ口」の語源になったといわれる。身八つ口と振八つ口は女性用の着物と子供用の着物にのみあり、由来については諸説あるが、女性用の着物の身八つ口は主におはしょりを整えるために、子供用の着物の身八つ口は主に紐を通すために利用されている。
男性用の和服では、次の図のように身八つ口と振八つ口は閉じられている(江戸初期までは女性も成長すると身八つ口、振八つ口を閉じていた)。振八つ口を閉じた部分を人形と呼ぶ。
- 身八つ口がない
- 振八つ口がない(人形)
- 袖口(そでぐち)
- 袖の内、手首を囲む部分となる、袖の端を縫い付けずに開けている部分。
- 袖刳り(そでぐり)
- 袖刳(そでぐり)ともいう。腕を通すために、服のうち胸部を包む部分の左右に開けられた穴。和服では、袖をつけるために服のうち胸部を包む部分の左右に開けられた穴。日本語でいう「アームホール」。英語の armhole とは少し意味が違う。
- 振八つ口(ふりやつくち)
- 袖の、脇の下に近い部分の、縫い付けずに開いている部分。振り口(ふりくち)といわれることもある。男性用の和服では縫い付けられており、縫い付けた部分を人形と呼ぶ。
- 身八つ口(みやつくち・みやつぐち)
- 身頃の、脇の下に近い部分の、縫い付けずに開いている部分。男性用の和服では縫い付けられている。
[編集] 和服の一部分を指す名称
- 袂(たもと)
- 和服の袖の下に垂れ下がった袋のようになった部分。
[編集] 和服の寸法において基準となる位置
- 肩山(かたやま)
- 和服の長着や羽織を着ないで平面の上に広げて置いたときに、服の肩の、前後に折り返してある折り目の部分。
- 剣先(けんさき)
- 衽の一番上の頂点。剣先は、前身頃と襟(本衿または掛衿)と衽が交わる所である。剣先には他の意味もあるが、和服の寸法の基準点としてはここに書いたような意味である。下に述べる衽下がりの寸法、身幅の寸法によってその長さが決まる。
- 裾(すそ)
- 衣服の袖以外の部分における裾は、衣服の、地面に最も近い端を指す言葉
- 背中心(せちゅうしん)
- 一般的に、身体を右半身と左半身に分ける面を正中面(せいちゅうめん)という。服を着たときに、身体の正中面と服の背中が交わる線を、背中心という。和服の背中の布が右の後身頃(みぎのうしろみごろ)と、左の後身頃(ひだりのうしろみごろ)に分かれている場合は、左右の後身頃を縫った線が背中心になる。このことから、背中心のことを背縫い(せぬい)ともいう。
- 褄先(つまさき)
- 和服の長着を着ないで平面の上に広げて置き、その長着の前をいっぱいに広げて、長着の裏ができるだけ見えるようにして眺めると、裾の線が折り畳まれずにほぼ直線になるはずである。そのときの、裾の左右の頂点を褄先という。
[編集] 和服の寸法における長さの名称
和服において、最も重要な寸法は以下の3つである。
- 身丈(みたけ)
- 和服の出来上がり寸法で肩山から裾までの上下方向の長さ。男性用の着物では着丈と同寸で、身長から頭部を減じた寸法となる。女性用は一般に、腰の位置で身頃を折り畳んでおはしょりを作って裾を上げるため、その分着丈より長くなり、一般には身長と同寸とする。
- 着丈(きたけ)
- 和服における着丈は、服を着たときの上下方向の長さ。
- 裄丈(ゆきたけ)
- 裄(ゆき)ともいう。背中心から袖の手首の端までの長さ。肩幅と袖幅を足した長さが裄丈となる。
その他の部分の寸法としては、以下のようなものがある。
- 衽下り(おくみさがり)
- 和服の肩山と襟が接する点から剣先までの長さ。和服の長着の衽下りは、通常19cmから23cmくらいである。
- 肩幅(かたはば)
- 和服における肩幅は、背中心から後身頃と袖の境目までの長さ。肩幅と袖幅を足した長さは、裄丈である。洋服における肩幅は、和服における肩幅とは違う。和服の長着の肩幅は、通常30cmから32cmくらいである。和服の肩幅の約2倍は、身体の左の肩から右の肩までの長さよりも長くなる。
- 繰越(くりこし)
- 左右の肩山の中心点から襟の後ろまでの長さ。女性用の和服においては、襟の後ろが背中へ向かって少しずらした位置になるように作ることが一般的に行われる。女性用の和服の長着の繰越は、通常2cmから3cmくらいである。男性用や子供用には基本的に存在しない。
- 袖口(そでぐち)
- 袖口の長さ。袖口明(そでくちあき)ともいう。袖口の長さは、円周の半分で表現される。袖の平面図の裁断の形状が四角形の場合で、かつ袖の左右の端を全く縫わない場合は、袖丈の長さは袖口の長さと同じになる(お宮参りの「掛け着」などに見られる大名袖がその代表)。小袖の場合は、袖の端の一部を縫って閉じてあるので、袖口の長さは袖丈よりも短い。和服の長着の袖口の長さは通常20cmから23cmくらいである。
- 袖丈(そでたけ)
- 和服を着ないで平面の上に広げて置いたときに、袖の上下方向を測った長さ。洋服の袖丈は肩の付け根から手首までの寸法を指すが、和服ではその寸法は下に述べる袖幅になる。野良着などに用いられる筒袖の場合は、袖の円周の長さは袖丈の2倍である。長着の袖丈は、年齢や好みにもよるが大抵通常49cmから51cmくらいである。
- 袖付(そでつけ)
- 和服を着ないで平面の上に広げて置いたときに、袖と身頃が繋がっている部分を肩山から下まで測った長さ。肩山から服の前の方向へ向かって測った長さを、前袖付という。肩山から服の後ろの方向へ向かって測った長さを、後袖付という。一般的には前後袖付寸法は同じであるが、好みや体格により「付け違え」と言って前後で寸法を変えることも行われる。女性用の長着の袖付は通常23cmくらいだが、帯を胸の高い位置で締める場合は、もっと短くする。男性用の和服の長着の袖付は、通常40cmくらいで女性物よりも長い。これは女性に比べて帯が細く、また腹の下部で締めるためである。
- 袖幅(そではば)
- 和服を着ないで平面の上に広げて置いたときの、袖の左右方向の長さ。肩幅と袖幅を足した長さは、裄丈である。一般的な日本語でいう「洋服の袖の長さ」は、和服では「袖幅」に相当する。通常、和服の長着では、袖幅は33cmから34cmくらいである。
- 抱幅(だきはば)
- 和服の右か左の前身頃の胸の辺りの位置の左右方向の長さ。衽の幅や襟の幅は含まない。男性用の和服では、肩山から下へ40cmの位置で前身頃の左右の幅を測った長さ。女性用の和服の長着では、身八つ口の最下部(身八つ口どまり)辺りの位置で前身頃の左右の幅を測った長さ。
[編集] 和服の部品の模式図
和服の構造を理解する助けにするため、反物、裁断の方法、そして部品の組み合わせ方について模式的な概観をここに示す。和服の制作方法について詳しくは、和裁を参照。反物は、和服の材料となる織物の総称である。女性用の和服の長着を作るときは、通常、幅が36cmの反物を使う。
[編集] 反物の模式図
布の表を保護するために、中表(表が内側になっていること)に巻いてある。
[編集] 裁断の方法(裁ち方)
一般的な裁断図を示すが、柄合わせを必要とするもの、また傷があった場合などはこの縦で区切られた区画のものの順序が異なる場合がある。
」
- 右の袖(そで)
- 左の袖
- 右の身頃(みごろ)
- 左の身頃
- 右の衽(おくみ)
- 左の衽
- 掛衿(かけえり),共衿(ともえり)
- 本衿(ほんえり),地衿(じえり)
- m
- 身丈(みたけ)
- s
- 袖丈(そでたけ)
[編集] 和服の部品の組み合わせかたの概観
※(部品の番号は裁断の方法と同じ)
[編集] 和服の肩幅と袖幅
現在の和服の長着を着たとき、身頃と袖の境界線の最上部は、人体の肩と腕の結合部分よりも手先に近付いた位置になる。身頃と袖の境界線の最上部は、典型的な体型では二の腕の中間辺りに位置する。この原因は、和服の長着の裁断の方法と、部品の組み合わせ方にある。一方の洋服では、ラグラン袖(Raglan sleeves)のような例外を除けば、服の胴体部分と袖の境界線の最上部は、人体の肩と腕の結合部分の辺りに位置する。
- 人体の肩と腕の結合部分
- 身頃と袖の境界線の最上部
[編集] 和服の種類
現在の和服には、大人の女性用・大人の男性用・子供用がある。男性用と女性用の和服のそれぞれに、正装・普段着・その間の服がある。基本的に男女両用の和服はないが、本来男性用とされていた和服を女性も着るようになるという現象は歴史上しばしばある。羽織などは明治期以降一般化しているし、現代では法被や甚兵衛なども女性用がある。
和服を構成する要素には、肌襦袢(はだじゅばん)、長襦袢(ながじゅばん)、長着(ながぎ)、羽織(はおり)、伊達締め(だてじめ)、腰紐(こしひも)、帯(おび)、帯板(おびいた)、帯締(おびじめ)、袴(はかま)、足袋(たび)、草履(ぞうり)、下駄(げた)などがあるが、省略できるものもある。豪華な模様を持つものが多いのは、長着と帯である。
[編集] 女性用の和服
[編集] 女性用の正装の和服
現在の女性用の正装の和服の基本はワンピース型であるが、女性用の袴は女学生の和服の正装の一部とされる。明治・大正時代に、学校で日常的に着る服として多くの女学生が女性用の袴を好んで着用し、女学生の袴姿が流行したことが、日本の文化として定着した。そのため、現在でも入学式・卒業式などの学校の儀式で袴を正装の一部として好んで着用する女学生がいる。現在の女性用の正装の和服には、黒留袖、色留袖、振袖、訪問着、喪服などがある。これらの正装用の着物の特色は絵羽模様(えばもよう)によって柄付けがなされていることである。絵羽模様とは小さなパターンが繰り返し染められている反復された模様ではなく、和服全体をキャンバスに見立てて絵を描いたような模様のことであり、脇や衽と前身頃の縫� ��目、背縫いなどの縫い目の所で模様が繋がるようにあらかじめ染められている。これら正装用の着物は原則的に結婚式・叙勲などの儀式・茶会など格の高い席やおめでたい儀式で着用される。留袖には、黒留袖と色留袖がある。黒留袖は地色が黒で染められているもので、色留袖は黒以外のものが地色のものを言う。黒・色共に原則として既婚女性用の第一礼装であるが、最近では色留袖が未婚の女性に着用されることも多くなった。
穏やかに使用されるおもちゃで何をするか
- 黒留袖
- 既婚女性の正装。生地は地模様の無い縮緬が黒い地色で染められており、背・後ろ袖・前胸に5つの紋(染め抜き日向紋)がある、柄付けは腰よりも下の位置にのみ置かれている。
- 色留袖
- 既婚女性の正装。上にも述べたが黒以外の地色で染められたものを指す。生地も縮緬だけではなく、同じ縮緬でも地模様を織り出したものや綸子を用いることもある。黒留袖は五つ紋であるが、色留袖の場合五つ紋だけではなく三つ紋や一つ紋の場合もある。宮中行事では黒が「喪の色」とされており黒留袖は着用しない慣例になっているため、叙勲その他の行事で宮中に参内する場合、色留袖が正式とされている。黒留袖は民間の正装とされている。
- 振袖
- 主に未婚女性用の絵羽模様がある正装である。正式には五つ紋をつけるが、現在ではほとんど紋を入れることはない。袖の長さにより、大振袖、中振袖、小振袖があり、花嫁の衣装などに見られる袖丈の長いものは大振袖である。近年の成人式などで着用される振袖は中振袖となっている場合が多い。絵羽模様に限らず小紋や無地で表された振袖も多い。
- 訪問着
- 女性用(未婚、既婚の区別なし)の絵羽模様がある礼装である。紋を入れる場合もある。生地は縮緬や綸子・朱子地などが用いられることが多いが、紬地で作られたもののある。その場合紬はあくまでも普段着であるため、訪問着であっても正式な席には着用できない。
- 喪服
- 五つ紋付き黒無地。関東では羽二重、関西では一越縮緬を使用することが多い。略喪服と言って、鼠や茶・紺などの地味な地色に黒帯を合わせる喪服もある。略喪服(色喪服)は参列者及び遠縁者など血縁の近さ遠さによって黒喪服を着るのが重い場合や、年回忌の折に着用する(通常は三回忌以降は略喪服を着ることが多い)。
古来は喪の礼装であるため、長着の下に留袖と同じく白い下着(重ね)を着ていたが、現在では礼装の軽装化と「喪が重なる」と忌むことなどもあり下着は用いられないのが一般的である。未婚、既婚、共に着用するものである。本来は白いものであった(現在でも白い喪服を用いる地方もある)が、明治以降黒=礼装の色と定められたことと、洋装の黒=喪という感覚の影響で現代では黒が一般的である。
- 付け下げ
- 訪問着を簡略化したものであらかじめ切って裁断された上に柄を置く絵羽模様ではなく、予定の場所に前もって想定し柄が置かれた反物の状態で売られているもので、縫うと訪問着のような位置に柄が置かれるものである。一見訪問着と見まがうものもあるが、訪問着との大きな違いは柄の大きさや縫い目での繋がりの他、八掛(裾回し)が表地と同じもの(共裾)ではなく、表との配色が良い別生地を用いている点である。略式礼装に当たるため儀式などの重い席には着用されることが少ないが、趣味性の強い柄付けや軽い柄付けの訪問着より古典柄の付け下げの方が格が上とされる。一般的な付け下げは儀式ではないパーティーなどで着用されることが多い。
[編集] 女性用の正装の和服を選ぶ基準
和服を着ることが既に非日常と化している現在では、着る場面によって女性用の正装の和服を選ぶマナーとしての基準は、古来よりあった「着物の挌」に基づいた規則のこだわらず今後変わる可能性がある。結婚式の披露宴で新婦が和服を着る場合は、大抵振袖を着る。しかし、50歳代以上の新婦でも結婚式の披露宴で振袖を着ていいのかどうかは、意見が分かれる。振袖が適しているのは、未婚の若い女性に限られるという意見があるが、年齢は関係ないという反対意見もある。結婚式で新婦以外の女性が和服を着用する場合においては、新郎・新婦の母親は紋付の黒留袖を着ることが望ましいとされる。新婦以外の女性の既婚者の参加者が新婦と友人であった場合、着物で出席するとき色留袖か訪問着が望ましいとされることが多い� �しかし、場面によってどんな和服が適しているかの判断は現在では一般の人には解りづらくなっているのが実情である。新郎・新婦の既婚の姉妹は色留袖・黒留袖のどちらが望ましいのかという点は、意見が分かれるようである。また結婚式自体を豪華にする傾向が薄れてきたため、親族であっても訪問着などで出席する場合もあり一概には言えない時代になってきている。
着物の柄についてであるが、おめでたい場所に着るという意味で礼装用の着物には縁起の良いもの、七宝・橘・鳳凰・鶴・亀などの「吉祥模様」や、昔の貴族のような豪華で華やかな模様、檜扇・宝舟・貝桶・御殿・薬玉などを表した「古典模様」のものが主に使われていることが多い。あまり趣味性の強い柄は改まった席には向かないとされるので、選ぶ際には留意することが必要である。
着物と帯や小物などの組み合わせも厳密に着物の挌によって基本的には決められている。例えば留袖や訪問着などの格の高い礼装は本来は「丸帯」であったが、現在丸帯は花嫁衣裳と芸者の着物に残るくらいで一般にはあまり用いられなくなり、戦後は主に「袋帯」が用いられている。この場合の袋帯は基本的に緞子や金襴・綴れ織などの織物によって柄を織り出してある豪華なものが用いられ、帯全体に柄が織り出されている「全通」もしくは帯を締めたときに中に入って見えなくなってしまう所以外に柄があり、全体の六割程度に柄が織られている「六通」が主に用いられる。
[編集] 女性用の普段着の和服
女性用の普段着には小紋・紬・浴衣などがある。
[編集] 男性用の和服
[編集] 男性用の正装の和服
男性用の正装の和服には、五つ紋付、黒の羽二重地、アンサンブル、縦縞の仙台平などがある。紋が付いた服(紋付)を着用する場合、足袋の色は白にする。草履を履くときは畳表のものを履く。履物の鼻緒の色は、慶事のときは白、弔事のときは黒にする。小物の色も同様に、慶事のときは白、弔事のときは黒にする。正装の度合いについては羽二重、お召、無地紬の順で格が下がる。羽織を着るべき場面か、着なくてもいい場面かの判断は、洋服の背広やジャケットの場合に類似する。なお、茶会では羽織は着用しない。 また、紋の数や種類によっても挌が決まるので正式な黒紋付として黒羽二重に紋を付けるときは、日向紋を5つ付ける。無地お召や紬などにも紋を付けるが、この地で五つ紋をつけて正装として着ることはしないので、現在ではこの地の場合は染め抜きではなく陰紋として刺繍などで付けることが多く、その数も三つ紋か一つ紋になることが多い。
現在の男性用の正装の和服を特徴づけるのは、長着、羽織、および袴である。アンサンブルは、和服の正式な用語としては「お対(おつい)」と言い、同じ布地で縫製した長着と羽織のセットを指す言葉である。しかし、長着と羽織に違う布地を使って、男性用の正装の和服として長着と羽織をコーディネイトした服をセットで「アンサンブル」と称して販売されていることは多い。
正式な場所での男性の正装の着用には必ず袴を着用する。男性の袴は「馬乗り袴」と言って洋服のズボンのように左右に脚が分かれているものが正式であるが、女性の袴と同じように分かれていないスカート状の「行燈袴」もある。厳密には袴にも夏用と冬用の区別はあるが、着物の袷のように裏を全体に付けることはないので地の薄さと密度によって区別されている。現在ではあまりこの別を意識することはなくなっている。
正装として黒羽二重五つ紋付を着る場合、本来であれば長着の下に女性の留袖と同じく「白の重ね」を着るのであるが、現在ではこの風習はあまり見られず花婿の衣装に「伊達衿」として白の衿をつけることに残っているのみである。
[編集] 男性用の普段着の和服
男性用の普段着の和服には色無地・浴衣・作務衣・甚平・丹前・法被(はっぴ)などが含まれる。男性用の普段着の和服では、羽織は着なくてもよい。戦後ウールの着物の流行により、くだけた普段のくつろぎ着としてウールのアンサンブルが用いられるようになり、気軽な訪問には用いられるが本来であれば自宅用として着用するのが望ましいものである。
和服を着用させること、または和服を着用することを、着付けという。着付けには履物を履くことも含まれる。現在では美容院で着付けをすることが多いため髪結いと着付けはセットで行われるが、髪結いは着付けの意味には含まれない。髪結いは着付けより前に行うことも、後に行うこともある。着付けには、自分一人だけで行う方法と、他者に手伝ってもらいながら行う方法がある。和服を着ることを、和装ともいう。着付けをする人を、着付師と呼ぶ。女性の和服の着付けは難しくはないが、手順があるので慣れが必要である。そのため着付けの本があり、着付けを教えるための学校が全国に多数存在する。着付けの学校では、女性用の和服の着付けを一般人に教える授業料と、着付けを手伝う手数料が、学校にとって� �大きな収入源になっている。世界の中で、自国の民族服の着用の仕方を教えるための学校が全国に多数存在し、かつ着付けを教える人に資格を与えるという国は日本だけである。ただし、これらの着付け教室や着付け学校が生まれたのは戦後のことである。
[編集] 和服は右前
男性用でも女性用でも、和服を着る際、手を袖に通した後、右の衽(おくみ)を体に付けてから左の衽をそれに重ねる。このことを、左よりも右を(空間的ではなく)時間的に前に体に付けることから、右前という。右前のことを、右衽(うじん)ともいう。男女共に右前なのは、洋服と異なる点である(なお、世界的に見れば洋服のように男女で打ち合わせが異なる方が特殊である)。
[編集] 右前にする理由
日本で和服をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説がある。時期については、『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられた。これはその当時手本としていた中国において右前に着ることが定められたのでそれに倣ったものと言われている。中国で左前にすることが嫌われたのは「蛮族の風習であるため」とされたが、この蛮族というのは北方に住む遊牧民達のことで、彼らは狩猟を主な生活として行う上で弓を射やすいという理由で左前に着ていた。農耕民である漢民族とは全く違う暮らしをし、しばしば農耕民に対する略奪を行っていた遊牧民達は、中国の古代王朝にとっては野蛮で恐るべき存在であり、これと一線を画することを決定� �たという説がある。それまでは中国でも日本でも左前に着ていた時期が存在する。また一説によると、一般的に右利きが多く、闘いなどの際右手で刀を抜きやすいように腰の左側に刀を差すことが多いため、刀を鞘から抜こうとするときもし和服を左前(右前の逆)に着ていた場合抜こうとした刀が自分の右から流れている衿に引っ掛かってしまうことがないように、和服を自分の左から右に流れている右前に着るようになったのだという。
また死者に死に装束を着せる場合通常と反対に左前に着せるが、これは「死後の世界はこの世とは反対になる」という思想があるためであると言われている。
[編集] 着付けの準備
縮緬類は半紙を四つ折りにして三つ襟の中に挟み、針で留める。 重ね着の場合は下着の襟だけを入れ、上下の背縫いを合せて1針留め、襟先も重ねて襟の付け根を1針留める。 長襦袢には半衿をつけておく。場合により半衿の中にプラスチックなどの芯を入れることもある。 腰帯、下締類はモスリン並幅三つ割を芯無にくけたものが解けず最もよい。
[編集] 着付けの順番
[編集] 長襦袢
肌着の上に長襦袢を着て衣紋を抜き、下締を2回巻いて結ばずに前で潜らせておく。
[編集] 着物
手を通して両手で襟先を持ち、上前襟先が右腰骨の上にくるまで前を合せ、座礼(茶の湯など)の場合、襟先が後に回るくらい深く合せる。下帯は腰骨の上の辺に締め、右横で結び、手を入れて「おはしょり」を伸ばし、衣紋を作り、襟はあまり広げずばち襟ほどにして、下締を締める。身八ツ口から手を入れておはしょりを整えて伊達巻を巻く。
[編集] 帯
帯のかけの長さは前に回して左腰骨に来るくらいがよい。丸帯は縫目が外になるように二つ折りすれば模様が前に来る。帯揚は盛装では大きめがよく、羽織下では低い方がよい。若い人があまり低い帯揚はよくない。
[編集] 男性
襦袢は襦袢で合わせて胴着を合わせて上下着を重ねて着る。 袴を履くならば角帯がよい。
[編集] 子供
7、8歳以上の盛装は腰揚をせず、難しいがおはしょりをして腰揚のように見せる。付紐を上着と下着と一所につけておくと楽である。
現在の正装の和服には、男性用・女性用ともに、紋(もん)が描かれている。紋は通常自家の家紋や裏紋(定紋や替紋)を用いる。和服の紋は、直径が2cmから4cmくらいの円の中に収まるくらいの大きさで表され通常白地で置かれる。和服の紋の数は1つ,3つ,5つのいずれかであり、用いる着物の種類や目的によって使い分ける。この内5つの紋が付いている「五つ紋(いつつもん)」が最も格が高い正式なものとなる。紋が描かれる場所は、紋の数によって決まっている。
また紋は「染め抜き日向紋」が正式とされ、白と地色だけで表される。紋が入る所は「石持ち」(こくもち)といい、あらかじめ白く染め抜かれており、そこに後から地色で柄を染め付ける。その他、輪郭線だけを抜いた「陰紋」が略式には用いられる。またさらに略式になると、染め抜きではなく刺繍で表される「縫い紋」となる。なお芸事や花柳界で使う着物の紋は本人の紋ではなく、所属する流派の紋や家元の定紋、また芸妓置屋の定紋を衣裳に染め抜いて用いることが一般的である。
紋が5つある「五つ紋」 背・後ろ袖・前胸
紋が3つある「三つ紋」 背・後ろ袖
紋が1つある「一つ紋」 背
[編集] 和裁(和服裁縫)
和裁とは、和服裁縫の略語であり、和服を制作することやその技術のことである。「和服の仕立て」ともいう。詳しくは、和裁を参照。
[編集] 和服の畳み方
「本だたみ」と言われる畳み方が一般的に普及しており、着付け方を紹介した本などにも多く取り上げられている。その他礼装用などで本畳みにすると刺繍など折り目が付いてしまうことを避けるために行う「夜着畳み」という畳み方もある。仮仕立てと呼ばれる仮縫いの状態や仮絵羽になっている着物を畳む畳み方(絵羽畳みなどと呼ばれる)もある。また仮に衣桁などに架ける場合や一時的に畳んでおく肩畳みなどと呼ばれる背中心から折り込み、衿が肩方を向く畳み方があり、これは洋服を畳む時に似ていると言え、本だたみのような技術は要しない。(なお、この畳み方を本だたみであるとする専門家もいる)また、襦袢や羽織などは本畳みにせずそれぞれの畳み方によって畳む。
[編集] 和服の洗濯の方法
一般家庭には、礼装の和服を洗濯する技術がない。一般的には、和服のクリーニングを専門に扱うクリーニング店に洗濯を依頼することが多い。縮緬や綸子など高価な正絹で作られている礼装の和服の洗濯の料金は高いので、正装の和服を洗濯する頻度は少ない。一方木綿や麻などの普段着の和服は、一般家庭で容易に洗濯できるものが多い。家庭での洗濯にも耐えるように「水通し」をしてあらかじめ生地を収縮させて仕立てる方法と、洗濯による生地の収縮を見込んだ仕立てを行う方法がある。古代においても持統天皇の御製『春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山』に見える通りである。正式には、洗濯の際に和服の糸をほどいて分解して洗濯し、染み抜きを行い、洗濯が終わったら大きな板に生地を張り付け上から� ��く糊を引いて乾かした後に縫い直すことを行う。この洗濯方法を、洗い張り(あらいはり)または洗張(あらいはり)と呼ぶ。縫い直すときに、服の寸法を直すことや弱くなった所の補修や弱った所を目立たない所に置き換える「繰り回し」などを行うこともある。これらの作業をする分、洗い張りの料金は高価になるのが一般的である。現在ではより安価なドライクリーニングの手法も多用されるようになっている。
[編集] 衣服の様式を表す言葉
和服の特徴を表す言葉を中心に、衣服の様式を表す言葉をここに集めた。
[編集] 袖があるかないか
- 肩衣(かたぎぬ)
- 袖のない身頃だけの衣服。
[編集] 小袖か広袖(大袖)か
- 小袖(こそで)
- 小さい袖口。または、小さい袖口がある服。
- 広袖(ひろそで)
- 大袖(おおそで)ともいう。広い袖口。
現在、小袖は和服の長着を指す言葉であるといわれることが多い。しかし元々「小袖」という言葉は、袖口が小さいという特徴をとらえた言葉だった。小袖の発生に関する研究は、極めて学術的で専門的な学問の研究対象であり、簡単に答えが出せるものではない。現在確認できる書物の中で、「小袖」という言葉が日本で最初に現れたのは、10世紀に源高明が書いた『西宮記』だといわれる。しかし、『西宮記』の小袖は、公家が肌着として着用した小袖とは別の物だといわれる。
[編集] 平安時代の公家の肌着としての小袖
平安時代に公家が使った「小袖」という言葉が、現在の日本語の「小袖」と同じ意味なのかどうかは、研究の対象である。一般的に言って、昔のことを研究するときは、現在と同じ言葉が昔使われていたとしても、同じ意味を持つとは限らないことを念頭に研究すべきである。平安時代の公家の肌着としての小袖に関して、次のことがいわれている。
- 「小袖」という言葉が発生した時期は、少なくとも平安時代の後期からであるといわれている。しかし、平安時代の後期よりも以前から、という可能性もある。
- 小袖は、袖口が小さい袖が付いた、上半身を包む服。円筒状の袖が腕を包む、筒袖といわれる袖だった。
- 公家が肌着として着た服と、盤領(あげくび)の服の2種類の服のどちらも、公家は「小袖」と呼んでいたのではないかといわれている。
- 「小袖」は、まず公家が使い始めた言葉だった。当初は、公家以外の人にとって「小袖」という呼び方は一般的ではなかった。
平安時代後期に公家は、袖口が大きい服を大袖と呼び、大袖に対して袖口が小さい服を小袖と呼んでいた。大袖と小袖は、袖の面積が広いか狭いかの特徴をとらえた言葉ではなく、袖口が大きいか小さいかという特徴をとらえた言葉だった。仮にある2つの服の袖の面積が同じであったとしても、その内1つの服の袖の左右の端の一部を縫って、袖口の長さを短くすれば、その服は小袖であり、端を全く縫わなかった方の服は大袖である。たとえ現在の振袖の袖のように面積が広い袖でも、袖口の長さが20cmくらいであれば、袖口が小さいという特徴を持っているといえるので、小袖であるといえる。平安時代の後期から鎌倉時代にかけて、公家以外の人の間に「小袖」という言葉が少しずつ広まったのではないかといわれてい る。平安時代の後期から、公家が、肌着として着ていた小袖に華やかな色を付けるようになったといわれる。肌着なのに、なぜ華やかにしたかはよく分かっていないが、襟と首の間から肌着が少し見えるから、という説がある。武士や庶民が既に着用していた服は、公家が肌着として着ていた小袖と形が似ていたらしく、武士や庶民は既に自分達が着ていた服を「小袖」と呼ぶようになっていったと推測されている。
[編集] 袖の長さ
- 半袖(はんそで)
- 腕の手首に近い部分が包まれない袖。
[編集] 袖の形状
- 筒袖(つつそで)
- 円筒状の袖で、腕と袖の布の間にあまり空間がない袖。服飾の研究では、特に和服に限らず洋服においても、筒袖の特徴を持った袖を筒袖と呼んでいる。洋服はほぼ全て筒袖である。現在一般的な正装の和服の多くは筒袖ではないが、作業着や普段着の和服には筒袖がみられる。
- 元禄袖(げんろくそで)
- 袖丈が25cmから30cmくらいで、袂の輪郭の丸みが大きい袖。元禄袖の「元禄」の語源は、日本の元号の元禄である。昭和の内1945年頃まで、布の資源を節約する目的で、和服の袖丈が短い袖が「元禄袖」と称されて宣伝された。これは、元禄時代を再現する目的ではなかったので、昭和の元禄袖と元禄時代の元禄袖は別のものである。昭和の時代に、筒袖の洋服を元禄袖に作り替えることはなかった。
- 角袖(かくそで)
- 角に丸みを付けない四角い袖。
- 広い肩幅と狭い袖幅
- 室町時代後期から江戸時代初期にかけて、裕福な庶民の間に、少し変わった形状の袖を持つ絹の和服が流行した。当時それは「小袖」と呼ばれたものの、平安時代の小袖とも現在の小袖とも違う特徴を持つ。その袖は、袖幅が短く(肩幅の約半分)、袖口が小さく、袖の下の輪郭が大きく膨らんで緩やかなカーブを描いている。半袖ではない。これは現在の寸法と違い当時の着物の前幅・後幅などが現在よりもかなり大きくたっぷりしているため、相対的に袖の寸法(袖幅)が短くなってしまっているのである。現在、この服を「初期小袖」と呼ぶのが間違いなのは、平安時代に既に「小袖」が登場していたからである。しかし現在、この服を「初期小袖」と呼んで解説している書物がある。
英語で "Kimono Sleeves" という、洋服の袖の様式を指す言葉がある。 Kimono Sleeves を直訳すると「着物の袖」だが、洋服の袖の様式を指す言葉の Kimono Sleeves は、和服の袖を指す言葉ではない。 この Kimono Sleeves とは、袖と身頃が縫わなくても繋がっている袖で、ゆったりとした大きな袖のことである。
[編集] 袂を身頃に繋げるか繋げないか
長い袂を身頃に縫い付けずに、離してあることを、「振り」があるということがある。
[編集] 八つ口の有無
身八つ口が開いているかいないか、また振八つ口が開いているかいないかによって、和服の様式が特徴付けられる。
[編集] 盤領か方領か
- 盤領(あげくび・ばんりょう・まるえり)
- 首の周りが丸い円周の形をした襟で、左の襟を右の肩の近くに固定させて着る。
- 方領(ほうりょう)
- 角襟(かくえり)ともいう。上前と下前の縁に沿って縫い付けられている襟。
- 垂領(たりくび)
- 方領の服を、上前と下前を重ね合わせる着用の方法。または、盤領の服を、首の前が露出するように、工夫して着用する方法。
[編集] 開襟かどうか
- 開襟(かいきん)
- 外側に向けて一回折った襟。
現在の和服に開襟はない。昔の和服には、極めてまれだが、開襟の和服があった。現在までに見付かった開襟の和服は、室町時代の末期と桃山時代の道服(どうふく)と、平安時代の唐衣(からぎぬ)だけである。
[編集] 衽の有無
衽がない服も存在する。通常、肌襦袢(はだじゅばん)、関東仕立ての長襦袢(ながじゅばん)、羽織(はおり)を作るときは、衽を作らない。
[編集] 上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服に隠れるか、表面に現れるか
上半身を覆う服の裾を下半身を覆う服の外に出して垂らすのは、和服では羽織、洋服ではスーツのジャケットやコートなどがある。上半身を覆う服の裾を下半身を覆う服に隠すのは、和服では袴を履くときの長着、洋服では、男性のスーツのワイシャツなどがある。
[編集] 身丈の長さ
- 対丈(ついたけ)
- 身体の肩から足までの長さを参考に身丈の長さを決めて服を作ること。対丈の長さを決めるときの前提に、次のものがある。服の裾がだいたい足首辺りになるようにすること、おはしょりを作らずに着ること、そして服の裾が地面を引きずらないことである。現在の女性の和服の長着を着るときはおはしょりを作るので、この服は対丈ではない。現在の男性の和服の長着を着るときはおはしょりを作らないので、この服は対丈である。昔の和服には、床の上を引きずるくらいの、身長に比べてかなり長い服もあった。
[編集] 布が何枚重なっているか
- 単(ひとえ)
- 単衣ともいう。布を重ねずに作った服。
- 袷(あわせ)
- 服の裏に布を重ねるように付けて、布が2枚重なっている服。
[編集] 和服の普及率の衰退
七五三や成人式、卒業式のような人生の晴れの節目の儀式・催事のときに正装の和服を好んで着用する人達は今も少なくない。しかし、20世紀から現在までの日本を全般的に見ると、和服の普及率が衰退していることは疑う余地がない。衰退の主な原因として、正装の和服は着付けに手間が掛かり、活動性に欠けること、着方によりある程度温度調節ができるものの、日本の大都市の夏場の気候には不向きであることなどが挙げられる。正装の和服は総じて高価であるが、安価な古着の和服を専門に扱う呉服店も出てきている。
普段着の和服には、大量生産されて安価な物もある。普段着としての和服は、洗濯もしやすく、着付けも簡単で活動に便利なものである。上半身と下半身部分に分かれたセパレート型のものもある。それでも現在、日本では一部の業種を除いて、甚兵衛や浴衣以外の普段着としての和服を見かける機会は非常に少なくなった。祭りにおける神輿の担ぎ手の股引ですら、スパッツやジーンズで代用されることが多くなっている。
[編集] 現在も和服が主流の分野
個人の好みで着用するのではなく、職業・役割により現在も和服の着用が強く求められる場合がある。次に挙げる場合は、職業・宗教により、正装または普段着として和服を着用することが主流となっている。
次に挙げるスポーツでは、選手はそれぞれのスポーツの専用の和服を着る。これらのスポーツ用の衣服は、女性用の正装の和服を売っているような店では販売されていない(剣道・弓道具店、スポーツ用品店で発売)。
[編集] 19世紀以前の和服の特徴を表す言葉
[編集] 注意
19世紀以前の日本では、現在の和服の言葉では使われない言葉が多数使われた。19世紀以前の日本の衣服について説明している、現代に書かれた文章において、次の2つの場合があるので、注意する必要がある。
- 現代の文献の著者が、現在の日本語で使われる字の中から、昔の書物に実際に書かれた字に相当する字を選び、文献に書いている場合
- 現代の文献の著者が、昔の書物に書かれた言葉を、書物が書かれたときよりも後の時代の言葉に翻訳して、翻訳された言葉を文献に書いている場合
古い服飾の研究は、有職故実の一部である。
[編集] 用語集
- 衣
- 現在の日本語では、「衣」という字は衣服の総称の意味が含まれる。しかし、奈良時代やその他の時代の書物によると、8世紀初期頃までの日本では「衣」という言葉は上半身を覆う服の総称だったことが分かっている。
- 袂(たもと)
- 現在の日本語の意味とは違い、江戸時代よりも前の時代の日本では、「袂」は袖のうち肘から手首までを覆う部分(別の言葉で言うと「袖先」)を指す。袂(たもと)の語源は、「手本」という言葉が基になり変化して生まれた言葉だといわれる。昔の日本人が「手本」をどう発音していたのかは、不明である。「たもと」は、現在の日本語の「手元」(てもと)と音が似ている。
- 袍(ほう)
- 袍は上半身を覆う服。袍には袖がある。「袍」という言葉は、だいたい7世紀頃から『日本書紀』に少しずつ出てくるようになる。701年の『大宝律令』と718年の『養老律令』の「衣服令」では、上半身を覆う服を指す言葉として「袍」よりも「衣」のほうを多く使っていた。8世紀以降、上半身を覆う服を指す言葉として「衣」よりも「袍」の字の方が次第に多く書物に現れるようになる。7世紀から8世紀の頃に使われた言葉の「衣」と「袍」が同じものを指していたのかは、現在も不明であるが、似た物だったと推測されている。袍には、裾に襴(らん)が付いているものと、付いていないものがある。
襴が付いている袍の図
- 盤領(あげくび・ばんりょう・まるえり)
- 襴
- アコーディオン状のひだ
- 襴(らん)
- 襴は、袍の裾をさらに下に伸ばすために袍の裾に縫い付けた布である。襴は、両足を分けずに包む。ちょうど、袍の裾にスカート状のものが付いた形になるが、スカートとは違い、欄を円筒状に縫うことはしない。反物から裁断した長方形の長い辺が、身体の上下方向とは直角になるようにして、襴が裾に縫いつけられる。従って、襴の上下方向の長さは、反物の幅とほぼ同じになる。体の前の部分の襴と体の後ろの部分の襴は、縫わなくても繋がっている。欄の脇線の位置、つまり体の前の部分の襴と体の後ろの部分の襴の境の部分に、アコーディオン状のひだが作られている場合がある。このひだの山と谷の折り目は、上下方向である。欄に、蟻先(ありさき)が作られることがある。
- 蟻先(ありさき)
- 蟻先は、欄の脇線の位置から左右に張り出した部分。蟻先の布は欄の布の一部である。つまり、欄の布と蟻先の布は、反物を裁断したときは1枚の繋がった布である。
- 縫腋(ほうえき)
- 脇線を縫って閉じてあること。縫腋の袍(ほうえきのほう)は、脇線を縫って閉じてあり、かつ欄がある服である。
縫腋の袍の図
- 盤領(あげくび・ばんりょう・まるえり)
- 襴
- 蟻先
- 闕腋(けってき)
- 脇線を縫わずに開けてあること。闕腋の袍(けってきのほう)は、脇線を縫わずに開けてあり、かつ欄がない服である。
闕腋の袍の図
- 盤領(あげくび・ばんりょう・まるえり)
- 前身頃
- 後身頃
- 被衣(かづき)
- およそ平安時代から鎌倉時代にかけて、一部の大人の女性が、一通りの衣服を着た後、さらに別の衣服で、頭も含めた体全体を覆って外出した。その着用方法において、頭などを覆う服を被布(かづき)という。頭に被るため、通常の和服と違い繰越が後ろではなく前身頃の方に大きく繰り越されており、頭から額まで隠れるように作られているのが特徴的である。
- 被布(ひふ)
- 江戸時代に発生した防寒用の和服。江戸時代の被布(ひふ)は、江戸時代の合羽(かっぱ)に似て、袖が付いていた。現在ではあまり用いられることがないが、七五三の女児の着物の上に着るものとして袖あり・袖なしのものが用いられている。
- 道服(どうふく・どうぶく)
- 道服は「道中(どうちゅう)に着る服」が語源ではないかといわれている。室町時代・桃山時代に、武士が道服を着たことが分かっているが、それ以前から道服という言葉があったという説がある。武士が着た道服と、僧が着た道服とは全く別の服である。道服(どうぶく)と胴服(どうぶく)は発音が同じだが、字が違う。室町時代に「道服」と呼ばれていた服は、室町時代に「胴服」と呼ばれていた服と形が同じだという説がある。しかし道服と胴服を区別する説によると、胴服は元々袖がなく、胸部と腰の辺りだけを覆う服だったが、後に胴服に袖が付くようになり、その結果、元々袖があった道服と形が同じになったのだという。道服と胴服は、室町時代の後期頃から、羽織(はおり)と呼ばれるように なっていく。
- 胴服(どうふく・どうぶく)
- 胴服(どうぶく)と道服(どうぶく)は発音が同じだが、字が違う。胴服には、袖がある服と袖がない服があるという説がある。
[編集] 主な大手呉服チェーン店
和服をショッピングセンターなどで比較的たやすく入手できる、主な大手チェーン店を列挙する。
京都きもの友禅、さが美、鈴乃屋、ほていや、東京ますいわ屋、やまと、三松、東京山喜、新健勝苑、京ろまん、ヤマノリテーリングス
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